潮時を見極めること、逃げないこと

「潮時」という言葉1が好きだ。それは自然とやってきて、また去っていくもの。

人生において、日々の生活において、潮時を意識しようと心がけています。みんなと一緒にいても、どこかのタイミングでさよならしなくてはいけない。それは何年かを過ごした場所やコミュニティに別れを告げるときもそうだし、飲み会みたいなものに参加したときどのタイミングで抜けるかを考えるときも同じ。ずるずるといつまでもとどまるのはよくないことが多いから、たとえみんなが動かなくても、自分だけ先に去るべきときがある。たぶん、それはけっこう頻繁にある。なぜなら人はそういう決断がなかなかできないからだ。だらだら二次会三次会と参加して、そのまま終電を逃してカラオケで朝まで、みたいのは典型的な無駄な時間の使い方だ。潮時はもっと前にあったはずだ。

答えなくてはいけないのは、「この場にもう一時間、一ヶ月、一年残ることによる効用は、いかほどのものだろうか? それによって自分がどのくらい成長できるだろうか?」という問い。こういうとき、居心地がいいとついつい長居してしまう。ちやほやされる場所、仲間がいる場所。ぬくい場所。そういう場所を、それでもあえて捨てなくてはいけない。未知の荒野に踏み出さなければならない。振り返っている場合ではない。

でも逆に、あまりころころ場所を変えるばかりでもいけない。それは逃げだからだ。これはとある競技をしていて思ったことだ。何かに取り組むとき、特に何らかのスキルを身につけようとしているとき、中途半端にかじって、その先が大切なところなのにフォロースルーをしないで満足してしまう人が多すぎる。他の人がしばしば一年や二年やったら満足することでも、もっと長くやったほうがいいこともある。その先の地平にはじめて見えてくるものがある。たしかに将来そのスキルそのものは使わないかもしれない。でも、真剣に取り組んで何かを身に付ける経験はきっと無駄にならない。

やめてしまうのが早い人を見ると残念な気持ちになる。「そんなにガチ勢じゃないから」とか「ほかにやりたいことがあって、それと両立したい」とか言って、けっきょくフェードアウトしていく。まあ、それはその人の判断なのでとやかく言うことはない。その人の人生なりに優先順位があるのでしょう。実際、別のことに取り組んで結果を残している人は純粋に尊敬する。でも見ていて思うのは、そういう言葉はしばしば逃げだということだ。本気で取り組んだら、自分の限界を見てしまうから。本気で取り組んだら、結果に言い訳できないから。だから本気を出さないことにして自尊心が傷つかないように守っている。そうやって痛みのない世界、ぬるくてやさしい世界に逃げている。それでいいのか?

けっきょく、大切なのは「人脈」とかではない。表面的に仲良いふりをしていても、そんなものはなんの役に立つか? 無駄にいろんなイベント、コミュニティに顔を出して、けっきょく自分の売りにできる強みがなかったら、よくて便利屋さんにしかなれない。若いうちはそれでもちやほやしてもらえるけれど、10年後にはどうなるか?

だから、潮が満ちるのを待たなくてはいけない。本当に満ちるまで、食い下がらなければいけない。プライドを砕かれても、傷だらけになっても。結果を出せず、スポットライトを浴びることができなくても。先輩にはかなわず、同期には差をつけられ、後輩には追いぬかれ、もう居場所がないように感じながら、それでも血まみれになりながら食らいつき続けるしつこさを持たなくてはならない。戦い続けないと、強くなれないのだから。

潮時を見極める目を持ちなさい。いつまでもずるずると快適なところにとどまらない。そしてつらいからといって早く逃げ出さない。居心地のよさに惑わされず、弱さにも負けずに。


  1. 厳密なことをいうと、「潮時」というのはなにかにちょうどいいタイミングのことであって、「そろそろ潮時だね」というフレーズで意味するような「やめどき」の意味では本来はないらしいが、けっきょく「やめるのにちょうどいいタイミング」という意味で使うのであれば両者の意味が重なるところだから問題ないと考える。この文章ではそういう意味で使っている。それに、誤用警察の言うことはそこまで気にするつもりはない。