痴漢されること

もうずいぶん前の話だ。私は痴漢された。あのとき、私は18歳だった。先に書いたように、学校にもずっと行ってなかった。友達も誰一人いなくて、そもそも人との関わりをほとんど持っていなかった時期だ。ただこのころにはわりとふつうに話せるようにはなっていた。

その日は夏の暑い日だったように思う。そのころ自転車を乗り回して一人で出かけることをよくしていて、その日もそうだった。昼頃だったか、暑くて、空腹にもなり、水分と糖分を補給しようとコンビニに立ち寄った。周囲は住宅地だったが、都市部ではなくて多少郊外だったから、駐車場の広いコンビニだった。その片隅で補給をすませ、しかし暑くて出発するまでもう少し休憩していたとき、一人の男が近づいてきた。

年齢とか雰囲気とかはよくわからなかった。40代から50代程度のそのへんに転がっていそうなおっさん、というところだろうか。他に特徴はなかった。

だいぶ前のことだから、なんと言って話しかけてきたのかは覚えていない。ただ、話しかけて来るときやたらと距離が近かったことははっきり覚えている。あまりに近いものだから私が後ずさりしてしまって、でも向こうはまた近づいて来るものだから最終的には何歩も位置が下がっていたくらいだ。

そして妙に卑猥な話をしてきた。内容は覚えているがしょうもないことなのでここで文字に刻むことはしない。私はそういう会話を文字通りまったくしたことがなかったからひたすら戸惑った。概念としては理解していたし、ネットで文字情報としては入ってきていた(そういう絵とかは見なかったし、そういうサイトには一切アクセスしなかったから、普通の掲示板にスパム的に貼られるやつとか、会話の節々に出て来る情報に限られたが)ので言っていることはわかったが、しかし一体全体どうしてこの男が私の前に現れてそういう会話をしているかはまったくわからなかった。

この時点で、本当に私は何もわかっていなかった。あまりに免疫がなくて、そういう下心で持って人が話しかけて来るということに及びもつかず、ただ赤面しながら相槌を打つだけだった。

そのうち、順番は忘れたが男が私の上に着ていたジャージのファスナーを降ろそうとしてきた。今度は私の股間に手を伸ばして触れてきた。まったく意味がわからなかった。ここに至っても、何一つ警戒心のようなものはなかった。ただ、何も理解しないまま、あまりにパーソナルスペースに近いから無意識に後ずさりをしていただけだった。

他人が自分に性欲を向けているということは完全に発想にないことだった。自分の性欲すら(この歳にしては奇妙なことだと思うが)よくわかっていないくらいだった。純粋を通り越していた。

けっきょく、このあたりまでで済んだのは単純に私が時間を気にしたからだ。まだ道のりは長く、ここでたぶん一時間くらいいたのだと思うが、もう出発したかった。それで出発するとき、よくわからないことに向こうは握手を求めてきて、それに快く応じるくらいには、事態が飲み込めていなかった。

気づいたのは出発した後だった。5分も走るうちに、ここまでのすべてがつながった。私は痴漢されたのだ。いっぺんに恐怖に震え上がった。振り向いたが追ってきてはいなかった。そんなの当たり前だが、そのときはずっと追跡されて捕まえられて車に放り込まれて拘束されてしまうのではないかと本気で思った。

さすがに距離があくうちにもうついてきていることはないと思ったが、今度は帰り道に待ち伏せされているのではないかと思った。帰り道では大きな川を渡らなくてはいけないから、そこでさっきの男からの情報で人身売買をする組織にでも張り込みされるのではないかと、どこまでも真剣に思った。それで警戒しながら橋を渡って、その後わざわざぐるぐると細い道を使って遠回りをして追っ手が来ていても撒けるように工夫したほどだった。

これで何が起こったかの話はおしまいだ。けれど、この後すぐに思ったことが一つと、振り返ってみて思うことが一つある。

すぐに思ったのは、「自分が気持ち悪い」ということだ。痴漢されて汚されたとかではない。けっきょく、わずかしか触られてもいないから、その意味では気にならなかった。そうではなくて、あの男の気持ち悪さが自分の中にもあるのかと思ったことでどうしようもなく汚い存在であるように思うようになった。あの男が私にしたように性欲を投射することを、私は女性に対してしてしまうのだろうと思うと、もうそんな器官は切除して中性的な存在になりたいくらいだった。あの男よりタチが悪いではないか、だって女性との間では体格とか力に差があるのだから。いきなり自分がゴキブリになったような気分だった、と言うとゴキブリに失礼なくらいだ。こういう自らの男性性への罪悪感みたいなものは未だに抱えている。

もう一つ、振り返ってみてわかることは、自らの性的側面に無自覚だと誰かが侵襲的な気持ち悪い行為をしてきてもそのことに気づけないのだということだ。少女・少年の性犯罪被害者とか、(その一種ではあるが)親族からの性的虐待を受けた児童が被害を受けた当時は十分に理解できず、後々になってから苦しむのはこういうことかと少しだけわかった気がした。人にもよるが、中学生高校生くらいでも自分と他者の性を認識するのが遅い純朴な子どもたちがいる。そういう子どもたちがさまざまな形で搾取される構造がどういうことなのか、部分的にせよ自分と重ね合わせられる気がする。あるいは大学生くらいになってもそういう事柄に疎い若者がいいように遊ばれて傷つくのも、類似の事例なのだろう。

痴漢関係の話題はネットの言論がもっとも不毛な場所の一つだ。だからこれでもって何かを言おうとは思わないけれど、せめてここに私の経験を書き記しておくことにする。