知っている人をテロで失うこと

しばらく前の話をする。ある日、Facebookに知らない人から友達申請が来ていた。ふつう、こういうのはスパムだ。だけどその人物はずいぶん本物の人間っぽい投稿をしていた。単に写真を投稿するくらいならbotでも簡単だが、コメントで文脈をひろった会話が成立していた。人間関係が見えた。これはbotにしては凝りすぎだろう。ということで意図はわからなかったが承認した。

その翌朝は、よく晴れた明るい朝だった。ケータイを開くとその人からメッセージが届いていた。ジャーナリストを名乗り、なんでも、私が会ったことのある、とある人物について聞きたいという。どういう意味だろう。胸騒ぎを覚えながら、名前が挙げられた人のタイムラインを開いた。たくさんの人がタイムラインに投稿しているようだった。スクロールしていくうち、"rest in peace"という言葉が目に飛び込んで来るまでさして時間はかからなかった。……二秒くらい、頭の中で思考が駆け巡った。そしてわかってしまった。その人は、こないだのテロ事件の犠牲になって、亡くなってしまったのだ。急に周りが暗くなった気がした。地軸が傾いた気がした。

会ったことがあって、一緒のテーブルを囲んだことがあったその人。海の向こうで凶刃に倒れてしまった人。二度と会うことはかなわない人。

現実的には、どちらにせよ二度と会うことはなかっただろう。かつてたまたま一度会っただけだし、ほかに接点はなかった。だからたとえ生きていたとしても……いや、もはやそんなことを考えることすらできなくなってしまった。もう、その人が生きている現実は存在しなくなってしまったのだから。

一回会っただけとはいえ、決して忘れたわけではなかった。ときどき更新されるFacebookで近況を見て尊敬していた。真剣に生きている人だった。行動できる人、熱意と志のある人とはこういう人なのかと思っていた。死者をたたえるためにこんなことを言っているわけではない。ほんとうに、この人は特別だったと思う。でも、もういない。

テロというものがこんなに近くにあるとは思わなかった。たしかに現実に存在していることはわかっていたけれど、でもどこか遠い世界のことだと思っていた。自分の知っている人が犠牲になるとは想像もしていなかった。しかし、もっと近しい人にとってはどれほどの衝撃なのだろうかとも思う。

しばらく立ち直れなかった。何事もなかったかのように振舞いたかったが、何事にも上の空だった。でも人に話すには重たすぎてためらった。言われても反応に困るでしょう。そして人の多い場所が怖くなった。トラックが突っ込んできたらどうしよう、通行人がナイフや銃を取り出したらどっちに逃げよう、そんなことを考えるようになった。ありえないことを言っているわけでもない。各国で起きていること。日本でも起きたこと。

どういう経緯で犯行に至ったのか、詳しくはわからない。テロというものは悪意の結晶なのだろうか。テロリストは悪魔の化身なのだろうか。いや、きっとそういうわけでもない。安易に宗教対立に還元するべきでもない。わたしの知っていたあの人に手をかけた犯人も、また人間だったのだろう。どんな人生を歩んできて、どうしてそこに至ってしまったのだろうか。

あれから少し時間が経った。でも記憶は薄れそうにない。Facebookは相変わらず誕生日をリマインドしてくる。一緒に写っている写真を何年前の今日の写真ですと不意打ちで表示してくる。残酷だ。

生きているって、当たり前のことじゃないのだとはじめて知った。もちろん人が死ぬことは知っていたし、人を看取ったこともあった。けれど死は、老年になって、生をまっとうした先にあるものだと信じていた。あるいはせめて近づいてくる足音が聞こえるものだと思っていた。志半ばにして夭折するなんて、本当に起きることだとは。

わかっている、生きているってことは、死に向かって歩んでいるということなのだと。あなたも、わたしも、みな死すべき存在。でも、それにしたってこれはあんまりじゃないか。

あなたが無駄にした一日は、昨日死んだあの人がどうしても生きたかった一日だ、というフレーズは使い古されすぎかもしれない。でも、改めて問わなくてはならない。わたしの今日は、あの人が天から見ていても恥ずかしくないものだっただろうか。