共感を土台にしたコミュニケーションの不毛さ

ああこの人は自分と境遇が似ている。同じようなことを考えている。同じ本を好きでいる……。

そんな「共感」をベースにして、私たちはついつい「自分はこの人と仲がいい、気が合う」と思ってしまいがちじゃないでしょうか。でも、それってあやういと思うのです。だって共感するときって相手を見ていないからです。自分の鏡写しになるべく近い存在を見つけて、鏡の代替物として使っているだけだからです。たしかに心地よいことは間違いありません。なんたって一番慣れ親しんだ人物である自分に似ているわけですから。自分と同じようなことを考えて、それを言ってくれるたびに、自分を肯定してくれているように感じられるからです。

だれか自分以外と接するというのは、差異があることを受け入れることです。自分が好きなものを相手は嫌いだったり、相手の大好物は自分がどうしても苦手なものだったり。たとえ双子だってやっぱりどこかしら違ってくるわけですから、まったく同じような存在は見つかりっこないし、もしいたらそれはそれで怖いことかもしれません。なのに、ついつい差異から逃げて、自分と似た人を求めてしまう。プラトンの『饗宴』で「人は昔々背中が張り合わせられた球体のような形をしていて、前後両方に顔が付いていて、四本足が生えていた。それを神がスパッと切断してしまったから、いまの人々は自分の片割れを捜し求めるのだ。」という話があります。そんな運命の「片割れ」を探すというのは恋愛の文脈においての話ですが、そうじゃなくても私達は似たようなことをしてしまっているんじゃないでしょうか。そしてtwitterのようなSNSが広く使えるようになったいま、けっこう趣味嗜好が会う仲間たちが見つかってしまったりもします。でもそれは、ほんとうは他人に求めるべきものじゃないのです。だって、相手と共感しあっているばかりでは独り言と変わらないからです。コミュニケーションをしているようでいて、実はしていない。自分を投影して、相手の向こうに自分を見ているだけ。そんなに不毛なこともないでしょう。

けっきょく、それは弱さの現われなのです。自分について語りたいけど、でも拒絶されたくないという弱さの。だから自分となるべく近くて、なるべく全部受け入れてくれる相手を探す。そして自分の弱さを肯定したいから、同じ弱さを持っている人を探す。弱くちゃいけないというわけじゃありません。でもせめてこのことには自覚的になるべきでしょう。ひょっとして、他人が自分と違うことへの耐性が下がってないでしょうか。意見が合わないといらっときてないでしょうか。すぐにアンフォローボタンに手が伸びているのではないでしょうか。

程度の差はあれ、人はみな「独裁スイッチ」を持っているのかもしれません。あの人とは音楽の趣味が合わない、あの人とは政治的意見が違う、あの人の服装は趣味じゃない。だからあんまり仲良くない。あるいはポジティブっぽい考え方でも、あの人は自分と同じアイドルが好き、あの人は同じ学校出身、あの人は……。そうやって、相違点や共通点、言い換えれば「共感できる度合い」で人との仲のよさ、かかわりかたを決めているとき、それは独裁スイッチを押しているのとそれほど遠くない行為だとと思います。あるいは身内に特有の言葉でしゃべることも、広い意味では同じようなものです。私がこうやって某アニメに登場するアイテムのたとえを出したとき、間接的に比較的似たバックグラウンドを持つ人を近づけているのです。そういうことを繰り返していくと、じわじわと周りにいる人たちは自分の鏡に近づいていくでしょう。そうやって何気ない日常でスイッチを頻度は高すぎて、いちいち気づくこともないくらいです。でもせめて、「この人は合わないな、好きじゃないな」と思ったとき、それがなぜなのかは考えてみたいなと思います。独裁者は、根っからの勝者から生まれるのではなく、臆病者から生まれるのですから。