言論識失調

大空を飛ぶパイロットは、感覚ではなく計器を信じるよう訓練されるという。「機体が逆さまだ!」偽りの感覚に誘われて、計器が故障したと信じ、そして二度と戻らなかったパイロットの末路からの教訓。 それは平衡感覚が失われる 「空間識失調」に陥るから——何も見えない雲のなかを飛ぶとき、上下両方を雲霞に挟まれたとき、あるいは一見平穏な大空で海と空を見間違えたことに対する、重たい代償。計器もときに壊れるけれど、その確率は人間が間違う確率よりずっと低い。

言論も似てるかもしれない。理屈では正しいとわかっているのに、感覚が納得できない考え方がある。そんなとき、理性を拒絶し直感に従う魅力は抗いがたいほど強い。どんなに先入観に反しても理性のみに従うには鋼の意思が必要。それはとてもむずかしい。でも、抗わなければ深く暗い認知バイアス とignoranceの海に呑まれてしまう。これを「言論識失調」と呼ぶことにしよう。

ここでやっかいなのは、違和感を覚える理由が言語化できていないだけで、実は背後にまっとうな理由なことがしばしばあること。でも、言語化できてない議論には危険がひそむ。細部を点検できないし、反論されるチャンスもない。だったら納得はいかなくても正しい理屈に従った方が、落とし穴にはまる確率は小さい。ここに思考を正確かつ具体的に言語化し、検証可能にすることの重要性がある。そうすることでより合理的、より低リスクな行動を取れるようになる。

でも、最後には"gut feeling"が、確率は低くとももっとも深刻な結末から人間性を守る砦になることもあるかもしれない。高度に武装され、偽装され、世間を席巻する「正論」や「合理性」と対峙したときには特に。そこに理由は持ち出せない。信念に理由をつけるというのは、その信念の絶対性を放棄し、条件つきにするということだから。提示した理由が崩れてしまったとき、信念を放棄して丸め込まれざるを得なくなる呪いだ。

後世の人々は安全圏から是非を論じられるのだろう。しかし現在を当事者として生きるには、どのみち過ちを犯す覚悟がいる。覚悟を持つことは罪を軽くするわけではないけれど、少なくとも自分が他者を裁ける立場にないことは学ばせてくれる。 ということで、パイロットにならって言論で示される合理性という「計器」に絶対的に従うべきなのか、あるいはときに直感による拒否権という例外を認めるべきなのか。けっきょくまだわからない。