選び得ぬもの

私たちは、「選ぶ」ことに慣れている。どこに暮らして、だれとつるみ、どんな仕事をするか。トレードオフはどうしても発生するし、選択肢の範囲に限りはあるが、その範囲内でならどうやって生きていくかはあなたしだいだ。あなたが気分を変えれば、いかようにも違う生き方ができて、強いて止めることは誰にもできない。だって、それはあなたの権利だから。

生き方は自分の選択だと思っているから、ものごとであれ、人物であれ、あなたの人生の構成要素には一つ一つに、これは好き、これは嫌いとラベルをつけていく。よい・わるい、正しい・正しくない、といったラベルも似たようなものだ。ラベルをつけて、取捨選択をする。価値判断の材料を用意しておかないと、選択ができないから。


たぶん、私たちは、「選ぶ」ことに慣れすぎている。だからあなたは、人生のすべてを、選択するという前提のもと、あなたの価値判断のレンズを通して見ている。

だけど、生きるということは、本来「選べない」ものではなかっただろうか。何を食べるかを選ぶのではなくて、手に入るものを食べるしかない。だれを友人にするかを選ぶのではなくて、周りにいる敵でない人間を仲間にするしかない。何をするかを選ぶのではなくて、ただ生きるために必要なことをするしかない。創造的な領域がないわけではないにせよ、人生のほとんどは、ただあるがままを受け止め、そのなかでなんとかやっていくことでしかなかったはずだ。

そういう選べない世界の方がよいと言いたいわけではない。ただ、理解しなくてはいけないのは、私たちのこの世界でいかに選べることが増えていようとも、すべてが選べるわけではないということだ。生きることの本質的なものごとは、選べない。その認識が、ぼやけがちになっている。

選べないから、それに好きとか嫌いとかラベルをつけるのは、そもそも出発点から間違っている。選び得ぬもの、「そうでなくあることはできない」ものは、ただそれとして受け入れるしかないからだ。だって、「好き」なのは他の可能性よりも相対的に好ましいからだし、「嫌い」なのは同様に相対的に好ましくないからだからだ。その尺度は、ただひとつの可能性しかない場合には意味を持たない。


家族や親戚といった血縁がいい例だ。これはもう、はなから選べないものだ。個別の言動に改めるべき部分があるにもかかわらず改めない場合などに、その部分について嫌うのはわかる。しかしそもそもその人たちの人となりとか、家のありかたとか、根本的に「そうであるしかない」もの、「そこに生まれたからにはしかたがない」ものは、好むも嫌うもないのだ。それともあなたは昼の次が夜であることに文句を言うだろうか。物を放れば落下するという事実を嫌うだろうか。そうでないなら、どうして同様に選び得ないものに心を悩ますのか。

あるいは、「生まれない方がよい」という考え方がある。これは存在と非存在を比べている点で議論の前提に疑問が残る1が、その点を棚上げにしても、そもそもわたしはわたしでしかあり得ず、あなたはあなた以外ではあり得ない(最初から、どの時点でも、それ以外ではあり得なかった)のだから、そこに良いとか悪いとかいう概念を当てはまること自体に無理がある。「xであるよりyであったほうが良い」と言えるのは、yである可能性があったときだけだ。「わたしは眼鏡をかけるよりコンタクトレンズの方がよい」とは言えるが、わたしはわたしでしかあり得ないのだから「わたしはわたしであるよりビルゲイツである方がよい」とは言えない2のだ。それは、選べる世界に毒されすぎた考え方だ3


この世界は、まるですべてが思い通りになるかのように信じ込ませる企みで満ちている。欲望を喚起し、あなたをカモにしようとする。だけど、人生はバイキング形式の食事ではない4。人生はタップやスワイプで人間とつながったりさよならしたりできるものではない。人生はネットで商品一覧から注文して作り上げていくものではない。そういう勘違いで世界の本質に目を曇らせて、「好き」「嫌い」という感情をどこまでも肥大させた姿は、醜い。

God, give me grace to accept with serenity the things that cannot be changed, Courage to change the things which should be changed, and the Wisdom to distinguish the one from the other. Serenity Prayer


  1. ユニコーンに生まれた方が幸せだから人間に生まれるのは不幸せだ」という論が成り立つだろうか?

  2. ビルゲイツは最初からビルゲイツなのであって、可能性の分岐の結果としてビルゲイツになったわけではないし、それはあなたも同様だ。

  3. ましてや、「わたしはわたしであるより非存在であるほうがよい」とは言えないだろう。二者が何らかの尺度で比較可能である前提は、両者が存在することだ。Nullと0を混同してはいけない。

  4. 以前にちょうど逆のことを主張する記事を書いた気がするけれど、そのときも、今回も比喩であって、まったく異なる比喩だから相互に関係がない。

ニセモノの人生

人生というものは、大海原を自由に航海し、大樹海を泳ぎ、大草原を駆けることだと思っていた。無限に冒険が広がっているのだと思っていた。

そういうふうにして人生を送っている人もいないことはない。だけど、ほとんどの人はそんな人生からは程遠い。わたしたちのほとんどにとって、人生とはできあいのテーマパークの順路をめぐるようなものだ。忘れられない出来事があり、運命的な出会いがあり、涙を流す悲しみがある。でもそういうものがすべて、色褪せて見える。ぜんぶ、仕組まれて、作られたものでしかない。

人生の順路を歩いているうちは美しく見えるかもしれない。だけど、見える景色すべてまがいもので、薄っぺらい板に描かれた虚構でしかない。道を外れて歩くと、その舞台装置の裏側が露になる。

大人になって、就職して、結婚して、子どもを育てて。そういう順路を忠実にたどれば、美しい場面の思い出に彩られた、素敵な人生が送れるかもしれない。だけど、それはただの板を風景だと勘違いしているだけだ。

おしゃれな建物、見た目にもおいしい料理、まばゆい夜景。こういうものの虚構性に気持ち悪さを覚えないで無邪気に消費できるのは、たぶん幸せなんだと思う。その建物ってヨーロッパの歴史ある建築の雰囲気をでっちあげただけのニセモノじゃん。その料理って、文化的な文脈も何も考えずに流行りものを出しているだけじゃん。その夜景って、つまり光害じゃん。あるいは家族で車で出かけて、キャンプをして、バーベキューを楽しむ。川で、海で、自然を味わい、夜には星空を眺める。これだって、けっきょく仕組まれた体験にすぎないじゃん。

そういう意味で、ゲームであれ、テレビであれ、あるいはアイドル趣味であれ、それこそテーマパークに行くことであれ、そういう設計どおりにただただ消費を行う活動は薄ら寒いものだ。たしかに楽しい。それはそうだ。だって、そういうふうに作られているから。ウイルスがわたしたちの体に巧妙に侵入するのと同様に、生き延びてきた被消費物は、きわめて巧妙なできばえをしている。

すべてのモノとサービスは、あなたに金を払わせることだけを目的にして用意されたものだ。そこで働く個人がどういう意思を持とうとも、経済のシステムは、作った人間と作られたものを切り離す。あらゆるものと人を交換可能にする。すべてのものがどこまでも表層的に成り果てる力として作用する。こんなのは、ハリボテだ。ニセモノだ。こんな人生は、ありもののピースでジグソーパズルを組み立てているだけだ。あるいは、そこらに転がっている録画済のビデオテープを切り貼りしているだけだ。そこには、本質も、独自さも、新規さもない。

"You are what you eat"という格言がある。だから、ちゃんとした食事をしなさいという。わたしはこう言いたい、"You are what you experience"と。ニセモノにおぼれていたら、あなたはニセモノの言葉を紡ぎ、ニセモノの仲間を持ち、ニセモノの感性と欲望に従いながら、ニセモノの人生を送るようになる。


言及していただきました。 私の世界を守るためにニセモノの人生と戦ってみる - シロクマの屑籠

人生に高速道路を探すのはやめよう

「レールから外れると人生は自由になる」という言説がある。これは、まちがっている。レールから外れれば外れるほど、「遅れを取った」分を取り返さなければいけない気がして、人一倍、一直線な道、いわば「人生の高速道路」を走ることに必死になってしまうから。

少なくともわたしにとってはそうだった。

実際のところ、わたしの「レールから外れる」度合いがどの程度だったのかを客観的に評価することはできない。たぶん、する意味もない。主観の上では、首の皮一枚で生還したように感じていた。

だから、ふたたび歩き出してからは、脇目も振らずに走り続けてきた。学歴もつけなきゃいけないし、スキルも必要だし、課外活動だってあくまで将来のために役に立ちそうなことをしていた。高速道路を全速力で進むことだけが、自分に許された道筋だと思っていた。

いや、本当はそこまで真面目な性格でもないから、足が進まないことはあった。でも、わき道にそれて「役に立たない」ことをすることはどうしてもできなかった。罪悪感が募る。サボるのはまずい。遊びのためにお金を使ってはいけない。あるいは、他者から見られる「真面目なキャラ」が傷ついてしまう。そういう心配ばかりしていた。

そのおかげかどうか、ところどころで人より秀でることもできるようにはなった。でも、けっきょく、何をしたかったのだろうか。

本当は、ヨーロッパ周遊とかしてみたかったのに。アメリカ横断とかしてみたかったのに。世界一周だってしてみたかった? 具体的に何かはともかく、そういう長期の旅行とか冒険とかしてみたかったのに!

だけど、Facebookで知り合いがそういうことをしているのを見ても、なぜか自分にはできないことだと思いこんでいた。自分には、やらなきゃいけないことがあるように思っていた。楽しいことをすることは、逃げることだと思っていた。生き方の正しさは、その苦しさによって担保されると思っていた。だから、苦しまないといけないと思っていた。人よりも苦しい思いをすることが、自分の生きる道だと思っていた。

「そんなこと言ったって、きみもうは院生だよ? そういうことは学部生のうちにすませておくことであって、いまさらやれることじゃないんじゃないかな?」そんな声が聞こえる。「同期は業績を積み重ねているのに、業績のないきみが遊んでいる場合なの?」ああ、うっとうしい。

……「うっとうしい」? そう思えるだけでも進歩していることに気づく。こうやって内なる声(あくまで比喩。単なる思考パターンであって実際に声が聞こえるわけではない。)を客観視できたのははじめてな気がする。いままでは、あの声と自分の意思が不可分だった。この声には反抗しなくてはいけない。この声は、遠くない将来にわたしを殺しかねないものだから。

生活がこわい

このごろ、夜遅くまでずっと大学に残る荒んだ生活をしていた。静かな夜の街を歩いて、帰宅したら寝るだけの生活。あるいは無為に夜更かしをしていることもある。食事は自室ではとらず、コンビニで買ったり食堂に行ったりしてすませる。

ところが最近引っ越して、何人かでの共同生活をはじめた。たまたま誘われたものに、渡りに船とばかり乗っかった。このままひとりでいたら心身の健康をひどく害しそうな気がしたから。

だからひさしぶりに、大きなスーパーに行って、買い物をする。食べ物だけじゃなくて、日用品も補充する。台所用品、掃除用品。自分で使う分と、みんなで共有する分。引っ越しのついでに収納も新しくした。そうやっていろいろなものを消費しなきゃ生きていけない。

買い物かごの中から、生活臭がのぞいている。レジに並ぶあのおばあさん、あの青年、あの子ども、そういう人たちとまったく同様に、自分も生活を営んでいる。新しい生活。見知らぬ街を開拓するのは好きだし、改めて生活をちゃんとしていけそうなことにわくわくする気持ちはもちろんある。

でも、心の中に水たまりができていることに気づく。まともに生活するっていうことが、そこはかとなくこわい。

自分がこうやって消費をして、いろいろなものを摂取して、排泄して、世間の一部を形成して、経済活動の一端を担っている。そういう大きな流れの中に、いやおうなく放り込まれている。それは当たり前のことだけど、ずっと目を背けてきたこと。

わたしが荒廃した生活に陥ったのは、単にめんどくさがりだったからだけじゃなくて、自分が世俗的な文脈の中に存在することや、肉体的に存在することを、認めたくなかったからなのかもしれない。


金を使うことがこわい。金を払っていろいろ買い物をしたり、サービスを受けることに抵抗感がある。自分が経済活動の一部であり、これからもハムスターがカラカラと回し車に乗り続けるように、わたしもどうにかして金を稼ぎ、消費し、生きていかなくてはいけないこと、その文脈から自由な傍観者のような存在には決してなりえないことを、レシートを受け取るたびに思い知らされる。

働かなきゃいけないし、税金を納めなきゃいけないし、家賃を払わなきゃいけないし、光熱費だってかかる。お金のために生きたくはないなんて言うのは勝手だけど、実際のところ金は前提条件であって、それなしには何事もできない。そうやって人生は条件とか制約とかがどんどん積もり積もって、目の前のことに追われるだけであっというまに終わってしまう。

経済活動において個人という存在は本質的に交換可能であること、そして人生の大半が単なる経済活動で占められてしまうという二つの事実は、明白に一つの結論をもたらすように思う。わたしの人生も、あなたの人生も、いくらでも取り替えが効く、凡庸で無意味なものでしかないという。


そしてまた、自分が肉体的な存在であることが、耐えがたい事実であるように思われる。

現代に生きるわたしたちは、肉を食べるために動物を屠る必要はないし、野菜は土を落としたものが売られているし、排泄したものは水に流れて、ゴミは行政が回収してくれる。そうやって漂白された生活をしていることへの問題意識は持っていたけれど、わたし自身はそれにすら臭みを感じてしまっている。

自分の身体は目に入らないけれど、感覚に訴えてくる。身体を忘れたくてお風呂に入らないでいてみても、食事を抜いてみても、寝ないでいてみても、身体はむしろその声を大きくして、不快感で存在を主張してくる。おとなしくさせるためには、世話をしてやらないといけない。

別に死にたいというわけではない。むしろ生きていることはそんなにいやじゃない。自分が知覚を持っていて、他者に知覚されているということは喜ばしく思う。ただ、自己の存在が、この俗世で生活していかなければならないように宿命付けられていること、そしてこの腐る寸前の肉塊によってのみ担保されているという事実は、受け入れがたい。

人生・自意識・凡庸さ

長い間、凡庸未満であることに劣等感を抱いてきた。

誰でもができることができなくて、誰でもが知っていることを知らなくて、誰でもが経験していることを経験していなくて。

だから、どうにか乗り越えようと歯を食いしばってがんばってきた。どうせ自分には無理だと思ったことは割り切って、少数のことに特化した。そうしたら、その勢いで普通の人をぶち抜いて、優秀な人みたいな顔をできるようになった。並みの人たちの間では一番優秀な立場を確保できて、それで優秀な人たちがたくさんいるところに属することもできた。

だから勘違いしちゃった。凡庸さを超越できるかもって。ひとかどの人物になれるかもって。

でもそんなことはなかった。調子に乗って、世俗的なことに人並みに手を出してみたら、ぜんぜん手が回らなくなった。社交的な生活をしたり、趣味を持ってみたり。いままでいろいろ捨ててきた分のアドバンテージがなくなった。みんな、こうやってやりくりしていたから中途半端だったのね。そんな中、一人だけ一つのことを朝から晩までやっていたら、そりゃあ人よりできるようになって当然だったんだ。

それに、みんなは人生というマラソンを走っているわけだから、そこで短期集中のスプリントしたら追い越せるのも当たり前だった。でもだんだん息が上がってきた。足がもつれそうになってきた。優秀な人たちは悠々と突っ走っている。まだいまは走った分の貯金があるけど、だんだん取り残されて、凡庸さの中に落ちていってしまいそう。

いままで、人生に幅があることを知らなかった。人生に長さがあるんだって感覚を知らなかった。一歩先だけを見て必死で進んできた。でも、顔を上げて、前を見て、左右を見ると、人生でやりたいことはいろいろある。いままでは単にすっぱいブドウでやせ我慢をしていたけど、本当は楽しいこともしたいって気づいちゃった。その楽しさも覚えちゃった。それに、長丁場だから完走できるようにペース配分をしないといけない。そうしたら、凡庸な生き方にしかならない。

ばかみたい。お年玉を一月に使い果たしていいなら小さな子どもでも背伸びできるのは当たり前じゃん。あるいは一点集中でつぎ込むなら、そこでなら贅沢な思いをできるのは当たり前じゃん。

でも、そうやって自分の中での要求水準を上げてあげて、限界まで上げてしまった。あるいは他者から優秀なように見られることを前提にしてしまった。いま、そのことに首を絞められている。

「もういいじゃん、上を見るのはやめて、身の丈にあった人生を送ろうよ。そうやって必死に生きているの、つらいでしょ?」そんな声が聞こえた。ふりかえると、凡庸さが口を開けてこっちに迫ってきている。声を振り絞る「いやだ、そんなのは認めたくない! 自分は、きっと、きっと、何かになれる。なれるはずなんだ……。」

減点法では優しくなれない

わたしはずっと、優しい人間になりたいと思ってきた。

だれかが困っているのに見捨てるなんてとんでもない。手を差し伸べられるようになりたかった。現実はそんなに簡単じゃなかった。気づけないことが多かった。でもそれ以上に多かったのは、気づいていたのに動けなかったこと。動けなくて後悔することを何回も繰り返した。

そしてまた、わたしは人を傷つけない人間になりたかった。悪いことをしてしまったら謝るのはもちろん、悪いことをしない人間になりたかった。傷つけることを言わない。傷つける行動をしない。だれかに涙を流させるほど悲しいことはないから。

そうして生きていくうちに、多少は人生経験を得た。他人とうまくいくことも、うまくいかないことも、いろいろと経験した。本も読んだし、ネットでもさまざまな情報に触れた。そうやって、どういう言動が不適切なのかを学んできて、人間関係の摩擦を減らすには役に立ってきた。「これを言ったら傷つけるかもしれない」、「あれをしてあげたいけど不快にするかもしれない」。そうやって配慮のある人間になれることを、わりとうれしく思っていた。


だけど、そうやっていろいろな人の考え、ストーリーを広く知るほど、身の回りの一人一人と純粋に向き合えなくなっていく気がした。

人はそれぞれ違うことを学んだから。踏み込んだ行動をしたら傷ついてしまう人がいることを学んだから。失敗からよく学んで、懲りてきたから。そうやって、わたしがただただ「礼儀正しい」だけの人間になっているように感じた。たくさんの数字を集めると最大公約数が小さくなっていくように、多くの人を知るほど、目の前にいる人物の像はぼやけていく。目の前のたった一人に近づく道を失う。遠慮しないことが大事なときもあるのに。踏み込んできてほしいと声にならない叫びをあげていることもあるのに。

きっと、あなたも似たような感覚を持ったことがあるんじゃないかと思う。だって、あなたは優しいから。優しくない人間だったらそうじゃないけれど、あなたは人を傷つけないか気にかける繊細な人間だから。

でも、優しさってなんだったのだろう? そっとしておいてあげるのが優しさ? あの人が孤独にもがき苦しんでいたのを、すべてが手遅れになってから知るのは、優しさだろうか? けっきょく、わたしはちっとも優しくなんかないんじゃないか。ひょっとしたら、あなたも。

奇妙なのは、わたしより「優しくない」と思っていた人が、むしろわたしなんかよりちゃんと人に手を差し伸べられていることだった。どうしてあの人が? どうしてわたしは何も行動できないのに? 優しい気持ちを育みたかったはずが、自責が腐敗した嫉妬の感情が渦巻いていることに気づく。


でもいったいどうして、あいつのほうが優しいように思えるのだろう?

「落ち込んでいるときにこれをしてもらってうれしかった」、「あの励ましがなかったら諦めていた」、「あのとき本気で怒ってもらってすごく感謝している」、そういう声を聞くのは、決まって危うい踏み込み過ぎの言動に対してだ。そんなことをしたら嫌に思う人がいることは容易に想像ができる。実際まったく同じようなことをされて嫌だったという話を聞いたことがある気がする。なんなら自分だったらやめてほしいなと思ったりする。それでも、その人はすごく感謝している。それが人生を変えている。そうやって出すぎた真似をすることで、人を救っている。

だけど、「優しい」し「傷つけたくない」わたしには、そういう行動はとれない。溺れている人に「助けてほしい?」と聞いて、返事があるまで岸辺で待っているのがわたしだから。「それは優しさじゃなくて弱さだよね」とありがちな文句で片付けるのは簡単だけど、そこにはもう少し何かがある気がする。

けっきょく、万能薬はどこにもないってことなんだろう。見かけの症状が似ていても、体内で起こっていることはまったく違いうるから、薬を出せば副作用のリスクがある。だから医者はちゃんと診断しなきゃならない。それと同じで、人の心も、見かけの状況や感情は同じでも、どうすれば癒せるか、どうすれば寄り添えるかは時と場合によるし、人による。ただ、違うのは、わたしたちは人の心の専門家ではないし、専門家ですら、心の中身を見ることはできないということ。だから、多くの症例を学べば学ぶほど、副作用を避けようとすれば、何も処方できなくなってしまう。

それでもなお、わたしたちは処方を決断しなくてはいけない。踏み込まなくてはいけない。人は、本当に助けが必要なとき「助けて」と言えないのだから。自らが助けを必要としていることにすら、気づくことができないのだから。嫌われることを恐れてはいけない。傷つけることも覚悟しなくてはいけない。他者と関わることは、生命の条件だから。

わたしも、あなたも、覚悟を持って手を差し伸べてきた他者に救われたことがきっとある。その人は、あなたを失うことを覚悟して、それでもあなたを救いたかったのだ。もしかしたら気づいていないかもしれないけれど。その処方はあなたには合わなくて、ただの嫌な奴として覚えているかもしれない。あるいは、あなたにたまたま合ったがゆえに、それがもしかしたら合わなかった可能性と、相手の覚悟の重さに気づいていない。そういう風に助けてもらったなら、今度だれかが困っていたらわたしたちが助ける番だ。


わたしたちは、人生を減点法で生きてきすぎたのかもしれない。そつなく問題に対処し、円滑に、トラブルなく生きることに特化してきた。人と衝突したり、傷つけ、傷つけられることを避けていた。それでは、優しくはあれない。そのような生き方では、さまざまな方法で「減点」を突きつけてくる他人との距離は遠くなる。自分自身も他人を減点法で見るから、淡々と生きることを期待し、そこから逸脱した人からは遠ざかる。だけど、人生においては、火事になった家に飛びこまなければならないときもある。

つまるところ、個人的な領域と「配慮ある」公共性の領域には、ある種の緊張関係が生じるのだろう。個人的な領域では、全員とうまくやれる必要はなくて、合う人とだけつきあっていけばよいからだ。そして、その人たちに本当に優しくなるためには、公共性に欠ける行ないをしなければならないことがある。問題は、個人的領域と公共の領域をすっかり分離することはできないことだ。

このように考えると、いままでに遭遇した「不適切なふるまい」をする人間が説明できる。あの人たちは、個人的な領域でのふるまいに最適化した結果、その領域の外側でも同じことをしてしまっていたのだろう。あの、「不適切」だけど同時にわたしには真似できない「優しい」面のある人たちは、矛盾なんかではなかったのだ。逆にわたしは、公共的なふるまいに染まった結果、個人的領域で何もできなくなっていったのだろう。

あまりこの問題を政治的な語彙で語りたくはなかったのだけれど、生きることは他者と関わることであり、他者と関わることは政治的な営みだから、どうしたって不可分だ。反Political Correctnessの文脈にこの話を落としこみたいわけではない。あくまで、たとえ境界がきわめてあいまいであれ、これは公共的な領域の外側での問題だ。その微妙なさじ加減を今日も探しにゆく。


言及していただきました。 web-g.org 跡地 — 思慮深く生きることは透明な存在になること?

書く意味

こんなところで何を綴っても、すべてがひどく自明なことでしかないのではないか。

これが情報量のある文章なら違う。役に立つ話でも、何かのストーリーでもなんでもよいが、とにかく知らなかったものを伝えるなら意味がある。でも、日常的な話題について日常的なことをつらつらと書くことに、何の意味があるのだろう。

ここで伝えようとすることを理解しない人がいることは想定できる。でも、そういう人がわかるようになる書きかたはしていない。すでにわかっている人に対して、すでにわかっていることを伝えているだけに過ぎないのではないか。そうすることに意味はあるか。「共感」を相互に得られる効果はあるかもしれない。しかしそれが何になるか。

もっとも、明日の自分は他人みたいなもので、いま自明なことであってもちゃんとまとめておくことは、将来の自分のためにはなる。一年もしたら、すっかりどんな思考をたどったかは忘れていて、思い出すことは不可能だけれど、他者に伝えるつもりで書いてあれば、たとえすでにわかっている人だけにしか伝わらない程度の親切さであったとしても、将来の自分に伝えるには足りるだろう。個別の思考は忘れていても、その基盤はそれほど変わらないから。

その延長で、明日の自分にとって多少なりとも読む価値のあることを書き連ねておけば、すなわち他人にもいくらかの価値はあるのだろう。すでに考えたことを思い出させるだけだとしても、それはそれでいいのだろう。だって、人は忘れる生き物だから。

でも本当は、やっぱり人に影響を与えたい。読んだら、もう元には戻れないような文章を書きたい。そんなものは古今東西見渡してみてもあまりないから、とてもむずかしいことであることはわかるけれど。