減点法では優しくなれない

わたしはずっと、優しい人間になりたいと思ってきた。

だれかが困っているのに見捨てるなんてとんでもない。手を差し伸べられるようになりたかった。現実はそんなに簡単じゃなかった。気づけないことが多かった。でもそれ以上に多かったのは、気づいていたのに動けなかったこと。動けなくて後悔することを何回も繰り返した。

そしてまた、わたしは人を傷つけない人間になりたかった。悪いことをしてしまったら謝るのはもちろん、悪いことをしない人間になりたかった。傷つけることを言わない。傷つける行動をしない。だれかに涙を流させるほど悲しいことはないから。

そうして生きていくうちに、多少は人生経験を得た。他人とうまくいくことも、うまくいかないことも、いろいろと経験した。本も読んだし、ネットでもさまざまな情報に触れた。そうやって、どういう言動が不適切なのかを学んできて、人間関係の摩擦を減らすには役に立ってきた。「これを言ったら傷つけるかもしれない」、「あれをしてあげたいけど不快にするかもしれない」。そうやって配慮のある人間になれることを、わりとうれしく思っていた。


だけど、そうやっていろいろな人の考え、ストーリーを広く知るほど、身の回りの一人一人と純粋に向き合えなくなっていく気がした。

人はそれぞれ違うことを学んだから。踏み込んだ行動をしたら傷ついてしまう人がいることを学んだから。失敗からよく学んで、懲りてきたから。そうやって、わたしがただただ「礼儀正しい」だけの人間になっているように感じた。たくさんの数字を集めると最大公約数が小さくなっていくように、多くの人を知るほど、目の前にいる人物の像はぼやけていく。目の前のたった一人に近づく道を失う。遠慮しないことが大事なときもあるのに。踏み込んできてほしいと声にならない叫びをあげていることもあるのに。

きっと、あなたも似たような感覚を持ったことがあるんじゃないかと思う。だって、あなたは優しいから。優しくない人間だったらそうじゃないけれど、あなたは人を傷つけないか気にかける繊細な人間だから。

でも、優しさってなんだったのだろう? そっとしておいてあげるのが優しさ? あの人が孤独にもがき苦しんでいたのを、すべてが手遅れになってから知るのは、優しさだろうか? けっきょく、わたしはちっとも優しくなんかないんじゃないか。ひょっとしたら、あなたも。

奇妙なのは、わたしより「優しくない」と思っていた人が、むしろわたしなんかよりちゃんと人に手を差し伸べられていることだった。どうしてあの人が? どうしてわたしは何も行動できないのに? 優しい気持ちを育みたかったはずが、自責が腐敗した嫉妬の感情が渦巻いていることに気づく。


でもいったいどうして、あいつのほうが優しいように思えるのだろう?

「落ち込んでいるときにこれをしてもらってうれしかった」、「あの励ましがなかったら諦めていた」、「あのとき本気で怒ってもらってすごく感謝している」、そういう声を聞くのは、決まって危うい踏み込み過ぎの言動に対してだ。そんなことをしたら嫌に思う人がいることは容易に想像ができる。実際まったく同じようなことをされて嫌だったという話を聞いたことがある気がする。なんなら自分だったらやめてほしいなと思ったりする。それでも、その人はすごく感謝している。それが人生を変えている。そうやって出すぎた真似をすることで、人を救っている。

だけど、「優しい」し「傷つけたくない」わたしには、そういう行動はとれない。溺れている人に「助けてほしい?」と聞いて、返事があるまで岸辺で待っているのがわたしだから。「それは優しさじゃなくて弱さだよね」とありがちな文句で片付けるのは簡単だけど、そこにはもう少し何かがある気がする。

けっきょく、万能薬はどこにもないってことなんだろう。見かけの症状が似ていても、体内で起こっていることはまったく違いうるから、薬を出せば副作用のリスクがある。だから医者はちゃんと診断しなきゃならない。それと同じで、人の心も、見かけの状況や感情は同じでも、どうすれば癒せるか、どうすれば寄り添えるかは時と場合によるし、人による。ただ、違うのは、わたしたちは人の心の専門家ではないし、専門家ですら、心の中身を見ることはできないということ。だから、多くの症例を学べば学ぶほど、副作用を避けようとすれば、何も処方できなくなってしまう。

それでもなお、わたしたちは処方を決断しなくてはいけない。踏み込まなくてはいけない。人は、本当に助けが必要なとき「助けて」と言えないのだから。自らが助けを必要としていることにすら、気づくことができないのだから。嫌われることを恐れてはいけない。傷つけることも覚悟しなくてはいけない。他者と関わることは、生命の条件だから。

わたしも、あなたも、覚悟を持って手を差し伸べてきた他者に救われたことがきっとある。その人は、あなたを失うことを覚悟して、それでもあなたを救いたかったのだ。もしかしたら気づいていないかもしれないけれど。その処方はあなたには合わなくて、ただの嫌な奴として覚えているかもしれない。あるいは、あなたにたまたま合ったがゆえに、それがもしかしたら合わなかった可能性と、相手の覚悟の重さに気づいていない。そういう風に助けてもらったなら、今度だれかが困っていたらわたしたちが助ける番だ。


わたしたちは、人生を減点法で生きてきすぎたのかもしれない。そつなく問題に対処し、円滑に、トラブルなく生きることに特化してきた。人と衝突したり、傷つけ、傷つけられることを避けていた。それでは、優しくはあれない。そのような生き方では、さまざまな方法で「減点」を突きつけてくる他人との距離は遠くなる。自分自身も他人を減点法で見るから、淡々と生きることを期待し、そこから逸脱した人からは遠ざかる。だけど、人生においては、火事になった家に飛びこまなければならないときもある。

つまるところ、個人的な領域と「配慮ある」公共性の領域には、ある種の緊張関係が生じるのだろう。個人的な領域では、全員とうまくやれる必要はなくて、合う人とだけつきあっていけばよいからだ。そして、その人たちに本当に優しくなるためには、公共性に欠ける行ないをしなければならないことがある。問題は、個人的領域と公共の領域をすっかり分離することはできないことだ。

このように考えると、いままでに遭遇した「不適切なふるまい」をする人間が説明できる。あの人たちは、個人的な領域でのふるまいに最適化した結果、その領域の外側でも同じことをしてしまっていたのだろう。あの、「不適切」だけど同時にわたしには真似できない「優しい」面のある人たちは、矛盾なんかではなかったのだ。逆にわたしは、公共的なふるまいに染まった結果、個人的領域で何もできなくなっていったのだろう。

あまりこの問題を政治的な語彙で語りたくはなかったのだけれど、生きることは他者と関わることであり、他者と関わることは政治的な営みだから、どうしたって不可分だ。反Political Correctnessの文脈にこの話を落としこみたいわけではない。あくまで、たとえ境界がきわめてあいまいであれ、これは公共的な領域の外側での問題だ。その微妙なさじ加減を今日も探しにゆく。


言及していただきました。 web-g.org 跡地 — 思慮深く生きることは透明な存在になること?

書く意味

こんなところで何を綴っても、すべてがひどく自明なことでしかないのではないか。

これが情報量のある文章なら違う。役に立つ話でも、何かのストーリーでもなんでもよいが、とにかく知らなかったものを伝えるなら意味がある。でも、日常的な話題について日常的なことをつらつらと書くことに、何の意味があるのだろう。

ここで伝えようとすることを理解しない人がいることは想定できる。でも、そういう人がわかるようになる書きかたはしていない。すでにわかっている人に対して、すでにわかっていることを伝えているだけに過ぎないのではないか。そうすることに意味はあるか。「共感」を相互に得られる効果はあるかもしれない。しかしそれが何になるか。

もっとも、明日の自分は他人みたいなもので、いま自明なことであってもちゃんとまとめておくことは、将来の自分のためにはなる。一年もしたら、すっかりどんな思考をたどったかは忘れていて、思い出すことは不可能だけれど、他者に伝えるつもりで書いてあれば、たとえすでにわかっている人だけにしか伝わらない程度の親切さであったとしても、将来の自分に伝えるには足りるだろう。個別の思考は忘れていても、その基盤はそれほど変わらないから。

その延長で、明日の自分にとって多少なりとも読む価値のあることを書き連ねておけば、すなわち他人にもいくらかの価値はあるのだろう。すでに考えたことを思い出させるだけだとしても、それはそれでいいのだろう。だって、人は忘れる生き物だから。

でも本当は、やっぱり人に影響を与えたい。読んだら、もう元には戻れないような文章を書きたい。そんなものは古今東西見渡してみてもあまりないから、とてもむずかしいことであることはわかるけれど。

心はナマモノ

私たちは、ナマモノです。ざっくり言ってしまえば、単なる肉のかたまりです。常温に放置された肉のかたまりです。考えてみてください、これってすごいことだと思いませんか? 肉を冷凍庫にしまい忘れて常温で放置していたら、数日のうちに腐って、臭くてたまらなくて、もちろん食べられたものではありません。なのに私たちは、こんなにあたたかい体温を持っていて、水に濡れたり、暑いところに滞在したりするのに、腐ることがありません。それは、私たちの身体がたくさんのエネルギーを消費しながら、この肉を維持しているからです。起きているときも、寝ているときも、ひとときも休むことなく。

気づいてほしいのは、心もまたナマモノだということです。私たちは、心というものを考えるとき、ともすると世界を見る始点としての心ばかりを考えてしまいます。まるでガラスでできているみたいに、透明で不変かのように捉えてしまいます。でも本当は、心は周囲から作用を受ける、柔らかいナマモノなのです。カタチとか、柔らかさとか、いろいろな状態があって、それによって同じできごとでも心の反応が違ってくるのです。世界の見え方が違ってくるのです。

そして、心はナマモノだから、気をつけていないとすぐに腐ってしまいます。身体と違って、自分で意識的に維持しなくてはいけません。意欲、好奇心、優しさ、そういう心はとても繊細で、壊れやすくて、簡単に無力感や、冷笑や、無関心に取って代わられてしまいます。そうならないように、心を純真に保つために、心を悪い影響から遠ざけるようにする必要があります。世間の喧騒、くだらない他人の噂話、ネットの論争、恨みつらみばかりを吐く人、あるいはあなたを打ち負かそうとする人、あなたを比較の目盛りに乗せようとする人、あなたの好きなことをバカにする人……そういうものから遠ざけて、心を守ってあげなくてはいけません。

世の中では、どういうわけか、みずみずしい新鮮な心を持っていることが、未熟さの証であるように思われています。まるで、大人になるためには、心が劣化する必要があるかのようです。そういう声に惑わされてはいけません。美しい花や、たくさんの実をつけてほしい植物を、わざわざ病気にするでしょうか。枯れてしまった花が、豊かに実ることはありません。同じように、あなたの心も、悪いものを知る必要はありません。知ったら、染まってしまうからです。一度悪い影響を受けたら、再び美しくなることはひどくむずかしいのです。どうか、純真でいてください。

他人と接することは、自分と接すること

友人と会う。恋愛関係の愚痴を聞かされる。なんだか、同じようなことを以前も聞かされたことがある。あのときは違う相手についてだった気がする。「それ、前も言ってなかった?」とは言わなかったけど、聞きながら気づいたことがある。


恋愛にせよ、友人関係にせよ、職場関係にせよ、家族にせよ、他者と接するということは、まず何よりも自分自身と接するということなのだ。パートナーとしての自分、友人としての自分、職場の人間としての自分、あるいは家族としての自分に。

自分の言葉、行動、感情、そういったものがこそ自分に作用する。それらが、他者との関係がどんなものであるか、少なくとも「あなたにとっての」他者と接するという体験がどんなものであるかを第一義的に規定する。

あなた自身に比べれば、他者そのものは背景のようなものだ。他者があなたに直接作用することはできない。あなたに作用するのはただひとつ、あなたそのものだ。他人があなたを幸せにするのではなくて、あなたがあなたの心を幸せにするから幸せになるのだ。悲しさも、怒りも、みな同じだ。他者に腹をたてることは、やまびこに腹をたてるようなものだ。

そう考えると、他者に不満を持っている人がいつでも誰に対しても不満を持っていて、逆にいつも楽しそうにしている人が誰といても楽しそうにしている理由がよくわかる。けっきょく、それはその人自身の問題だからだ。

もしあなたが、例えばバドミントンが人より下手という場合は、それを何のせいだと思うだろうか。バドミントンというスポーツがけしからんもので、自分に嫌な思いをさせようとしていると思うだろうか。だからテニスやらバレーボールやらに乗り換えたら問題が解決して、いきなり上級者としてスタートできると思うだろうか。そんなことはないだろう。単にあなたの問題、あなたの練習不足、そんなことを思うに違いない。

ところがこれが相手が人間になった途端に、問題は自分の外部にあると人は信じ込む。そんなことはないのだ。少なくともよっぽどのことでないかぎりは。相手が人格を持ち、意思を持つからといって、あなたを直接に支配しているわけではないのだから、あなたがその人とどんな関係を結び、関係から何を経験するかは、あなたしだいなのだ。

だから、恋人に不満を持ったとして、何人恋人を取り替えてみても、問題は解決しない。問題はそこにはないからだ。家族にいらだちを覚えたとして、他の家族に生まれてもきっと同じだ。友人グループがおもしろくないと思ったとして、他の人たちとつるんでもきっと変わらない。もちろん、個々の事情は少しづつ違うだろう。でも、根本的なところでは変わるはずもないのだ。だって、常にそこにはあなたがいるから。

どこにも完璧な恋人も家族も友人もいないのだから、折り合いをつけてうまくやっていかなくてはならない。あなたにとっての他者との関係がどんなものになるかは、ひとえにあなたしだいだ。

カコケイのカンケイ

人生を生きていると、いろいろなところで、いろいろな人間関係を築いていくことになる。初対面からはじまって、だんだん打ち解けていって、安定期に入り、しかしやがて終わりを迎える。引越しであれ、卒業であれ、転職・退職であれ。そして人間関係は現在形から過去形へと移行する。

それは、共通の過去によって結び付けられている関係だ。現在の所在ではなく、現在の趣味でもなく、過去のあり方に依存して成立する関係。過去の記憶がなくなったら、もう二度と生まれない関係。そういう関係は貴重なものである一方で、どうしても不自然さが伴う。現在の状況から半ば必然的に生じる関係性を自然林に例えるなら、過去の慣性によって生じている関係は人工林だ。手入れをしないと枯れ果てたり、あるいは繁茂しすぎる。


猫も杓子も「コミュニケーション能力」に夢中だ。人とつながる積極性、そして仲良くなるコミュニケーション能力、そういうものをみんながもてはやす。

でも、大切なのはそれだけか? 対人関係はその始まりがすべてなのか? もっと大事なのは、過去形になった関係を維持する能力、そしてときには解消する能力なのではないか。それは、物理的距離を超えてコミュニケーションをとり続けることができるこの時代にこそ必要な能力だ。

例えば、特別接点が多かったわけじゃなくて、一緒に長い時間がそれほど長かったわけじゃない人と、細く長く関係を維持していく力を大切にしていきたい。なにがしの同期とか、この仲間グループとか、集団で関係をくくるのは簡単だ。それに基づいた関係を継続するのも、定期的にみんなで集まっていればいい。でもそうではなくて、一対一の関係として、あなたとわたしの関係として、友人関係を維持していくことができたら、人生はもっと豊かになると思う。けっきょく、大事な話は複数人ではできないから。

あるいは、関係を一段トーンダウンして続けていくことも必要だ。もともとはしょっちゅう顔を合わせる仲だったとしても、やがて疎遠になるのは避けられない。けれど、疎遠になってもうおしまいというわけではなく、仕切り直しでほどよい距離の関係に調整してやりたい。なんだかんだ、よき理解者同士であれるはずだから。

そして、人と別れる能力も大事だ。ちゃんと別れないと、ずっとつながっていられてしまうからこそ。でも、別れ方はよくわからない。喧嘩別れがしたいわけじゃない。誰も教えてくれない。でも、もういいよっていう人間関係、あるでしょう。そういうのに付き合うのは人生の損失だ。友達と、知人と、別れましょうって言えるようになるにはどうしたらいいのだろうか。

けっきょく、人生の限られた時間で、優先されるべきは現在形の関係であって、過去形の関係は二番手だ。けれど、過去形の関係は人生でだんだん積み重なってくるものだから、うまく向き合う重要性は増していくことはあっても、減ることはないはずだ。

だから、優しいあなたはモテないのです

ネットの世界では「優しいのにモテない人間(たいてい男性)」が大きな存在を見せている。日本には限らず、"nice guys finish last"みたいなことを言うし、わりと広く見られる言説なのだろう。散々語られていることではあるが、あえて書いてみることにする。

誰にでも優しいから

優しいあなたは、たいがい誰にでも優しい。結論から言おう。あなたがモテないのは、そのせいだ。これはごく単純なインセンティブの論理から導かれる。

あなたは誰にでも優しい人間だ。無私の精神で、自分のことは後回し。しんどくてもそのことをおくびにも出さず、人を助ける。相手が嫌なやつであっても、人を分け隔てするのは非道徳的だと思っているから、求められれば助けてしまう。そもそも断れない性格だ。あるいは、そうやって人から頼られることに自分の存在意義を感じている。

だからあなたは不満に思っている。そんな聖人のようなあなたを差し置いて、いけ好かないあいつがモテていることを。あるいは恋愛以外の場面でも、なぜかあいつの支持者が多い。意見がぶつかると、あなたの味方だったはずの人々も、なぜかあいつの肩を持つ。

その理由は簡単だ。あなたが誰にでも優しい場合、周りの人間にはあなたに近づくメリットがないのだ。あなたの優しさは、あなたから遠くにいても手に入る。なんならあなたの敵であっても享受できる。だったら、誰がわざわざあなたに近づいてくるだろう?

それに対して、人が寄ってくる人間というのは、自己中心的な人間だ。えこひいきをする人間だ。第一には自分のニーズを満たすことを考えている。第二には身内・仲間への利益供与を考えている。そして残りの時間ではいかに敵を引き摺り下ろすかを考えている。

はっきりさせておこう。そういう人間がモテるのだ。なぜかというと、近くにいれば得をするからだ。八方美人のあなたよりずっと多くを近しい人間に与える。そのかわり、遠い人間には何も与えないし、むしろ害することが多い。この利益とか害とかは金銭的なものに限らない。時間とか、関心とか、感情とか、そういうものも有限な資源だ。それをだれにでもばらまくあなたには魅力がない。知っているか、結婚したら家族をないがしろにするタイプというのは、あなたのような「優しい」人間だということを。

生きていると嫌味な人間に多数遭遇するし、どうしてそいつらに恋人がいるのかと疑問に思うのはもっともだ。しかし、それはあなたが表面的な関係しか結んでいないからだ。そういう人たちの多くは、ひとたび「仲間」と認めた相手にはぐっと親切になる1。ましてや恋愛関係に至れば。そのことに気づいていないなら、人間の観察が足りない。

だからあなたは自己中心的にならなくてはならないのだ。世界は、あなたを中心に回っていて、親密な関係にあるごく少数の人間以外はすべて背景だと信じるのだ。だれかのストーリーの脇役になるのをやめるのだ。そうすることで、周りの人間はあなたに近づきたいと思うのだ。だって、そうしたほうが得だから。けっきょく、恋愛というのは特別に親密な関係を築くことだから、八方美人キャラは出番がない2

いや、あなたの気持ちはわかる。自己中心的になるのが怖いのでしょう。人から批判されるのが怖いのでしょう。拒絶を恐れているのでしょう。みんなから承認されないと死んでしまうのでしょう。だから誰にでも優しいのでしょう。――ねえ、それでモテると本気で思ってる?

「でも、」とあなたは言うかもしれない。「そんなことをしたら対人関係が悪化するじゃないか!」。ならばこう返さなければならない「そういうところだぞ」と。次の点に続く。

敵を作れないのは弱さだから

あなたはたぶん、全員ないしは大半の人から好かれるタイプだと自負している。なんならそのことにちょっとプライドを持っている。自分が優しくて、気遣いができるゆえの結果だと思っている。そう、そういうところなのだ。そういうところがモテないのだ!

あなたは、嫌われることを避けている。敵を作ることを恐れている。孤立したら生きていけないと思っている。――それらの態度は、すべて「弱さのシグナル」でしかないことに気づくべきだ。

あなたは、相手が嫌なやつでも怒ったりしない。無茶な要求をしてきても突っぱねることをしない。自分の守らないといけない範囲も譲歩してしまう。することといえば、せいぜいtwitterで愚痴るくらいだ。あなたはきっと、波風立てないのが大事だとか、譲歩するのは美徳だとか、そういう美辞麗句で自分の心をだましている。

気づいてほしい、それらはすべて、あなたが弱いということを示している。誰からも好かれるようにする戦略というのは、弱者の戦略だ。戦ったら勝てないから仲良くするのだ。野生動物の服従のしぐさに他ならない。そんなのでモテるわけはないではないか!

大事なことは、モテるためには強くある必要があり、かつそのことを示すシグナルを発信する必要があるということだ。シグナルというのは、クジャクの羽やら鹿の角と同じだ。

強い者は、自分の意見を主張することをためらわない。対立を恐れないから。強い者は、敵を作ることをためらわない。戦って勝つ自信があるから。さらに言えば、その強さを恐れて相手は敵にならないと踏んでいるから。そう、相手はあなたみたいな「優しい人間」だから。強い者は、時には味方を失うことも恐れない。また別に獲得できるとわかっているから。そういうのが強さだ3

不遜にふるまうのは、強さの「シグナル」効果を重視した振る舞いだ。しばしば店員とかの他人に態度が悪い人間がいて、なのにモテるとかなんとかの話しがあるが、それは横柄さが強さのシグナルだからだ。そうやって多少風波を立てることをしてもやっていけることは、強さを証明しているのだ。

けっきょく、モテるためには、そして恋愛関係に至るためには、ある程度波風を立てる必要があるのだ。人にアプローチすれば、嫌われることも拒絶されることもある。恋敵ができて対立するかもしれない。別れたら気まずくなる。コミュニティ中で相手を探せば出会い目的だと白い目で見られそうで心配だ。かといって出会い目的のコミュニティに飛び込む勇気はない。そんな、誰からも嫌われたくなくて、いい顔だけをしていたくて、他者からの評価にすがっているあなたは、モテるはずがないではないか。

「でも本当に強い人間はとても謙虚だって言うじゃないか!」とか言うかもしれない。これは一つには認知バイアスの働きである可能性が高い。もう一つには、それはさらに上級の戦略だから、あなたには無理だっていうことに気づく必要がある。

たとえば世界的に有名な億万長者が質素な生活をする。それは、「中途半端な成金とは違う」という逆説的な強さのシグナルだ。ふつうの金持ちは高級なものを身につけたりすることで強さのシグナルを送る。でも、振り切れた億万長者になると、「もはやそんなシグナルを送る必要もないほど有名な富豪だ」というメタなシグナルを送るのだ。ビルゲイツが四畳半に住んだら感心されるだろう。でもちょっとした金持ちが同じことをしたら庶民と間違われておしまいだ。ましてやあなたのような貧乏人が貧乏人っぽい生活をしたところで、名実ともにただの貧乏人でおしまいではないか。

それと同じで、あえて強さのシグナルを送らないで謙虚に生きるのは、メタな強さのシグナルだ。でも、なんでそれがメタなシグナルとして機能するかを考えてほしい。本当に一呼吸置いてよく考えてほしい。それは、そういう謙虚さがふつうなら弱さのシグナルであり、モテないシグナルであり、とても不利だからだ。だから真似してはいけない。


だから、優しいあなたはモテないのだ。万人に承認してもらうことを求めている限り、八方美人でいる限り、嫌われることを恐れている限り、対立を恐れている限り、あなたはずっとモテないままだ。そういう醜くて、不安にとらわれているあなたを直視する覚悟はあるか。あるなら、「優しい」なんていう都合のいい言葉で覆い隠すのをやめることだ。あなたは優しくなんかない。さあ、どうする。


  1. こういうのは道義的によいものではない。延長していった先には縁故主義ネポティズムがある。でも、世の中けっきょくのところそういうのばっかりではないか? 仲間になれば、ルールを曲げてでも便宜を図ってくれる。ニュースでは見るのに、身近な人間関係は違う力学で動いていると思うならなんてお花畑な考えかたをしているのだろう。めでたいからどうかそのままでいてほしい。モテないけど。あなたも少しくらいそういう経験をしたことがあるのではないか? 友達のよしみで何かの締め切りを延ばしてもらったりしたことはないか? ない? それはモテるモテない以前にだれかと仲間になることができていないということ……。

  2. これはなにも恋愛関係に限ったことではない。人を率いる立場一般にも当てはまることだ。誰にでも優しい人間は、リーダーたる資格がない。一番わかりやすい例は独裁者だろう。独裁者は好き勝手にやっているのではない。あれは、権力ピラミッドの頂上から転落しないように必死でバランスを取る無理ゲーだ。少しでも間違えれば革命でギロチンだ。側近を肥やさなくていけない。キーパーソンを懐柔しつつ、敵は消さなければならない。万人に優しい独裁者などいないのは、それがリーダーシップ失格だからだ。博愛主義とリーダーシップは両立できない。

  3. これは「空気を読めない」こととはまったく違う。以前に書いたので参照 qana.hatenablog.com

たとえだれも見てなくても

うそをついてはいけない。それは人にバレて怒られたり嫌われたり不利益を蒙るからではない。そういうケースもあるだろうが、それはうそが下手なだけだ。

どんなにバレないケースでもうそをついてはいけない。なぜならあなたは必ずあなたがついたうそを知るからだ。あなたがうそつきだと知るからだ。

これは一般の悪行や善行に共通だ。誰も見ていなくても、気づかなくても、あなたは自身はあなたの全行動を知っている。これは恐るべきことだ。

そうしてあなたは日々、あなた自身がどんな人物であるかの印象を形成していく。それは積み重ねの結果であって、変えようとして変えられるものではない。常日頃の行動によってのみ形成される。

あなたが悪行を重ねていれば、あなたは、あなた自身を悪人だと見るようになる。あなたは、あなたのことを「他人から尊敬されるに値しない人間だ」と思うようになる。それはあなたから前に進む力を奪う呪いだ。

加えて他人もきっとあなたと同じように生きていると思うのが人の常だから、他人もうそをつき、ばれないとわかれば悪行を働いていると思うようになる。この考え方は人生を台無しにする。他人を頼ること、他人を愛すること、他人を尊敬することができなくなる。

あなたが悪行を重ねれば、あなたはすべての人間を嫌いになる。どんな他人の優しさもあなたを救えない。孤独にすらなれない。だってあなたは、あなた自身と仲違いしているから。

だから、幸せに生きたければ、善い行いをすることだ。他人が見ていても、見ていなくても。そんなのはどうでもいいことだ。だって少なくとも自分は見ているのだから。そしてあなた自身を好きになり、それを通して全人類を好きになることだ。