故郷から逃げること

実際に正しいかというと疑いが大きいらしいが、「外国語でしゃべると別のペルソナになる」というのは本当だと思う。私なんかでも、英語でしゃべっていると、「さわやかにコミュニケーションできる、明るいけどまじめなやつ」みたいになれる。

これは作ったペルソナだ。英語環境ではこれでいける。一人のときは微妙だが、人と接していればずっとこれで。むしろ外そうと思っても外せないペルソナだ。こうやって切り替えられることは救いになりうる。生い立ちが幸せでなかった人、心を病んだ人、祖国で生きづらい思いをしている人にはいい選択肢だ。

それと比べて日本語ペルソナは息苦しいと言わざるを得ない。そういうとき、「ほら日本社会はこんなに息苦しい、海外はこんなに自由だ」という人がいる。でも、それは違う。だって、どうみても、同じ環境で人による生きやすさのほうがばらつきが大きいではないか。あなたが作った日本語用のペルソナは息が苦しく、あなたが後で作ったたとえば英語のペルソナは呼吸しやすい、それだけのことだ1。なんなら、もしあなたが英語話者として英語圏に生まれればまったく逆になったかもしれない2。どうしてそういうペルソナができあがってしまったのか。たとえば家庭環境のせいか。そういうところにここでは踏み込まないが。

けっきょく、自分と真に向き合うためには、もともとのペルソナに向き合う必要がある。いや、無理に向き合わなくてもいい。たぶん、このまま海外で暮らせば幸せになれるだろう。ただそれでも真実を見るには、やっぱり戻ってこなくてはいけない。自分が生きるうえでつらいところを見なくてはいけない。真実は快いものとは限らないのは知っているだろう。

もう一度言うが、そのペルソナが生きづらいのはこの社会ゆえではない。間接的にこの社会に影響されて形成されたものではあるにせよ、この社会の形から必然的に形成されたものではない。だってこの社会でも幸せにやっている人たちはたくさんいるではないか。そう、あなたがあまり好きじゃない「ああいう人たち」のことだ。なんならそれは社会の90%くらいを占めているのではないか? そして――落ち着いて考えてみるといい――どの国の社会でも、良くも悪くも「そういう人たち」が90%くらいを占めているのではないか?

あなたの誤解は、その精神と身体を通して見た「世間」が、実際の世間をゆがみなく写していて、他の人たちにも同じものが見えていると思っていることだ。そうではない。きちんと自分のゆがみと向き合うのは、絶対に苦しい過程になる。けっきょく、残念ながら精神の一番根っこにつながっているのは、母語のペルソナであり、日本で生まれ育った私たちにとって、日本という存在はどこまでもつきまとってくるものだ。たとえ明日起きたら国全体が太平洋の底に沈んでいても、それでも日本という存在が私たちの精神の根幹を成していることは何一つ変わらない。それが自分の中核にあることを認め、受け入れる落しどころを見つけなくてはならない。一番醜いのは、自分が生まれ故郷から切り離せない存在であることを認められず、「日本的なもの」に誰彼構わず攻撃的になったり、あるいは自分がどこかよその国や文化圏の人間になったと思い込んで、無意味に自分の優越性を誇示するような行動をとることだ。それは自分のルーツへの劣等感をこじらせた末路だ。

あなたは好むと好まざるとに関わらず、あなたはどこまで行っても日本人だ。だけど、それは別に悪いことじゃない。国が、政治が、文化が、好きかどうかは別に関係なく、あなたがどこかの出身であることは、何も恥じる必要のないことだ。同時に、別の国の方が生きやすく思うことも、苦々しく思う必要はない。だって、自分が幼い頃に形成したペルソナよりも、もう少し大きくなってから形成したペルソナの方が生きやすいのなら、それはあなたの人生が良い方向へ向けて進んでいるということではないか。過去に冷静に向き合えば、自分の出自とか属性が悪いのではないことに気づくだろう。少なくとも、「日本」とかいう括りは大きすぎる。だって、一億人以上の人がいて、その中には色々な人がいて、好きなように生きている人もちゃんといるではないか。あなたは、どんな場所で、どんな人間になることもできる。それを縛るものはない。あるとすれば、自分で自分にかけた呪いだけだ。


  1. もちろん、外国の社会ではある種「お客さん」だったり、社会のごく一部しか見てなかったりするというバイアスも激しくかかっているが、これはあまりに自明なことなのでここでは取り扱わない。

  2. 実際、日本というのは結構魅力的な国扱いされているのだ。日本の言説での北欧の立場に似ている。少しイロモノっぽい部分も加わるので、北欧にブータンをちょっと混ぜたくらいだろうか。

他人と比較して苦しむあなたへ

他人と比べて自分が優秀だのそうでないの一喜一憂するものではない。そういうのは言ってみれば受験勉強マインドだ。大人になったら人間はそんなに単純な一つの軸で評価できないことを知るべきだ。たとえ何らかの実績や昇進が非常に重要でも、それを達成する方法はいろいろあるし、だから何かの能力で劣っていても他を伸ばせばいいことだ。ふてくされるのをやめて自分のやるべきことをすることだ。

そしてとにかく前に進むことだ。自転車で先に出発しただれかを追いかけたことはあるだろうか。別に徒歩でもいいが。たいして出発した時刻は変わらないし、めちゃくちゃがんばって飛ばしたのに、追いつくまでは相当な時間がかかることに気づくだろう。人生もこれと似ている。とにかく遅くてもいいから進むのだ。アキレスと亀の話ではないが、相手が追いかけてくる間に自分はさらに進めるから、案外追いつかれないものだ。

特に大学院生について言うのであれば、とにかく自分なりの独自性を出してアウトプットしろって話だ。だってもうアウトプットがすべてなんだから。それ以外の表面的な「優秀さ」みたいなものはどうでもいい。そして、インプットは人と同じことをすることにしばしば意味があるが、アウトプットは人と違うことに意味がある。別に論文が人のものほどインパクトなくたって、数が少なくたって、独自性のある研究をしていればそれでいいのだ。それが自分の興味あることなのだから。何の不満があるのか。余計な感情を抱くのはやめて本来の興味に立ち返ることだ。あなたが研究に興味を持ったのは、そのころ知りもしなかったあの同期に勝つためではなかったはずだ。あなたはあなたの最先端を切り開いている。人類であなたが一番詳しいことがあり、あなたしか知らないことがある。つべこべ言わずに、その道を進むことがあなたの使命だ。さっさと戻ってそれを果たせ。

むやみに

むやみに約束してはならない。 Pacta sunt servanda, 約束したことはあなたを縛るから。約束を守る人間になるための一番の近道は約束をしないことだ。これは冗談で言っているのではない。本気で、むやみにできない約束をしてはいけない。したくない約束をなんとなくの義務感や付き合いでしてはいけない。社交辞令のつもりで言った「また会いましょう」は、自分を縛り付ける。人間は一貫性を求めるもので、たとえ相手が忘れていても、自分が発した言葉に矛盾することはできない。だから、会いたくもない人にまた会うはめになる。未来の自分を犠牲にしてはいけない。

むやみに願ってはならない。現状と違う未来を望むことは、現状を否定することだ。自分と違う存在になりたいと願うことは、自分を否定することだ。本当に、願いすぎてはいけない。願っていいのは、荒唐無稽なほど大きなことか、あるいは本気で実現することの二つだけだ。願うなら、全力で、犠牲を払ってでもそれを実現しなくてはいけない。願ったとおりの現実を手に入れなくてはならない。そうでないと、願いは呪いになって心に沈殿していく。

むやみに正しくあってはならない。正しさは凶器だから。正しさを振り回してはいけない。正しくないことでやたらと他人を攻撃してはいけない。正しさは、本質的に人間と相性が悪いからだ。あなたにだって、いつかは正しくあれない時が来る。そのとき、いままで砥ぎに砥いだ鋭利な刃はあなたに向かってくる。

よい先輩になるために

何もしなくても気を遣われてしまうことを自覚する。非対称な関係だから、遠慮すべきところは遠慮するようにする。たとえいやでも、向こうからそうは言いづらいのだから。勘違いしてはいけない。あなたと後輩との距離は、あなたが思うほど近くない。あなたは、あなたが思うよりも先輩だ。過去の記憶を思い出すのだ。そしてこの感覚の非対称性を理解するのだ。良い先輩になることは、とりもなおさず「自分の感覚は正しくないと自覚するプロセス」にほかならない。

後輩のメンツをつぶしてはいけない。後輩がさらに後輩に対して何かを教えている時、あるいは単に先輩風を吹かせている時、たとえ言っていることが間違っていたとしても否定しない。きみが優秀なら、きみの後輩も優秀なはずだ。たまに間違ったことを言ったとしても、おおむねよい指導をしている(なんたってきみの後輩なのだから!)はずだから。きみの責務は後輩の後輩を直接指導することではなく、後輩を指導することで間接的に影響することだ。そのためには、後輩を尊敬に値する存在だと見せることが一番大事だ。あなたがそこで自分の方が格上だと見せつけることには何の意味もない。

指導するためには自分をもっと磨かなくてはならないことに気づく。後輩ができたからといっていきなり教育専門にならない。プレーヤであり続ける。でないといい指導はできない。プレーヤーでなくなってしまうとどうしても感覚がずれてくる。これは言語化しづらいが、どこか違うのだ。そしてそのずれに気づき修正する機会がなくなってしまう。あなたはまだまだ自分が上達しなくてはいけない。

そしてさらに歳を重ねてきたら、ひたすら謙虚になることだ。自分が正しいと思うことがきっとすでに古い考えで、そしてそのことに自分は気づけないのだということを自覚する。後輩がなにか違うことをしようとしていたら、まず自分が間違っているのだと考える。後輩に教えを乞う。そのとき、自分なりに納得しやすいことを選び取らない。それは自分の考え。そうではなくて、まるごと飲み込む。ある種、無批判になる。もし信じられないなら、ほかの後輩にセカンドオピニオンを求めるのはかまわないけれど。

引退する時期が近づいたら、もうあなたは役に立つことよりも害をなさないことが大事だ。主導権は後進に譲り、自分の責務を果たすことだけに集中するべきだ。求められていないなら、でしゃばらない。組織には新陳代謝が必要だ。そしてあなたは、剝がれ落ちなくてはいけない角質だから。

スイッチをパチンと

スイッチというとどんな姿のものを思い浮かべるだろうか。某ゲーム機ではない。一般名詞の方だ。ボタンではなくて、二つの状態、オンとオフを持つもの。

まあ、なんでもいい、ちょっとそれを思い浮かべてほしい。それで頭の中でおもむろにパチンと切り替えるんだ。切り替わっただろうか。そう、それでいい。

そうしたら、そのスイッチを何かに接続するんだ。電灯とかにつなぐわけじゃない。あなた自身の行動に接続するんだ。スイッチを入れたら立つ。切ったら座る。単に想像上でやるんじゃない。想像上のスイッチを、実際のあなたの身体の動きに対応させるんだ。単一の動作でできたら、次は一連の流れに対応させよう。布団から出て、着替えて、身支度を手早くして、家を出る。その流れをスタートさせるスイッチにしよう。そしてそれを朝になったらオンにするんだ。何も考えてはいけない。自動的に動く。途中で止まってもいけない。スマホとか触るのはダメだ。ただ自動的に流れ作業で家を出る。一旦家を出てしまえばもう大丈夫だろう。そう、朝なかなか動き出せない時はこうやって対処すればいい。

感情につなぐことだってできる。恐怖心とか、不安とか、嫌悪感とか。どうしても気が乗らないけど送らないといけないメッセージは、下書きして送信ボタン一発で送れるようにしておく。そして、パチンと嫌な気持ちのスイッチを切って送信する。これは簡単だ。一秒だけ切れればいいから。したくない電話もスイッチを切って三秒でアドレス帳を開き、発話ボタンを押してしまう。何を喋るかとか事前に考えようとすればするほどできなくなる。勢いではじめてしまえばいい。嫌いな食べ物も、スイッチを切り替えた瞬間に口に運んで一気に咀嚼する。これは吐きそうになるからちょっと難しいけど。

いずれもある行動を開始するスイッチとして使うべきだ。開始したらもう止めづらい行動であるとよい。スイッチによって「何もしない」というのは難しい。余計な思考がぐるぐる回ってしまうから。スイッチを入れて、無心で何かの動作をする。部屋の掃除でもいい。そうやって自分をうまく制御できるようになると、たぶん日々が幸せに過ごせるようになると期待している。

尊敬されることは、孤独になること

先日、ある先輩にひさしぶりに会う機会があった。その人はこれまでに私が出会ったことのある人の中で一番と言っていいくらい尊敬する人だ。だから素直に言うことにした、「とっても尊敬しています」と。きっと喜んでくれると思って――。

しばしの沈黙ののちに返ってきた言葉は予想とは異なるものだった。「尊敬してるとか言わないでほしい。さびしいから。」

――尊敬されることは、孤独になることなのだ。遠ざけられることなのだ。異質な存在として扱われることなのだ。川の対岸にいる存在、最初から異なる生き物として生まれた存在、「私たち」の一員ではない人間。そうやって見られてしまうのだ。どんなに対等で、何も特別じゃないただの弱い人間として見てほしくても、それはかなわないのだ。尊敬とはそういう意味だ。

尊敬されることは、高い期待をもたれ、それを裏切れなくなることだ。尊敬されているゆえに自分の居場所があるのなら、尊敬に値しなくなった瞬間に自分はそこにいられなくなる。人間勝ち続けることはできないし、衰えは避けられないのに、それでも戦い続けるしかない。負けられない負け戦を。――いや、ひょっとしたらあなたは真に私を人間として認めてくれているのかもしれない。だけど、そうなのかどうかはわからない。だから、どこにいっても、私は帰属意識を得ることはできない。――そんな気持ちになるのだ。サッカープレーヤー、歌手、ピアニスト、棋士、なんでもよい、自分が下手になったら、みんな離れていってしまうのではないか。どんなにがんばっても勝てない次世代のスターが出てきたら、私のことなどみんな忘れてしまうのではないか。その猜疑心は、宝くじでいきなり億万長者になった人が誰のことも信じられなくなってしまうのと似ている。

尊敬されることは、自分という存在ではなくて、肩書きとか、業績とか、能力とか、そういうものによって認識され、取り扱われることだ。「あの○○さん」として見られることは、自分自身を見てくれないことだ。等身大の、ただの一人の人間としての自分自身を見てくれないのだ。人間なんだから短所だってある。怠惰になることだってある。恥ずかしい過去だってある。でも尊敬されればされるほど、そういう面を否定されてしまう。何かの能力にたまたま秀でていただけで、人々はその向こうに全人格的な卓越性、超人性、あるいは神性を見てしまう。まるで完璧な人間であるかのように誤解され、期待され、そうでないとわかれば失望される。だれだってただの人間なのに。どうしようもなく、人間なのに。それでも超人の仮面を被らなくてはならない。それがウソであることを、どこまでも隠し続ける。でも、自分だけはウソを知ってしまっている。孤独だ。

だから、そういう人たちは同族とつるむのだろう。スポーツ選手、芸能人、アイドル、あるいは王族とかもそうだ。どんなにファンが好いてくれていても、プライベートな付き合いはできないのだ。だって、自分を見てくれないから。俳優が演じた役に恋に落ちてその俳優を追いかけるのがバカげているのと同じで、そういう人たちはいつも「役」を演じているから、その向こうにプライベートの人物像はないのだ。だからこそ、田舎でひとり駐在の医師するのはいくら稼げても好まれない選択肢なのだろう。仮面を外せる機会がないから。ずっとちやほやされたり、嫉妬されたり、とにかく「医者」としてのペルソナから自由になれない。1

冒頭の話に戻る。なんということをやらかしてしまったのだろう。なんて私は浅慮だったのだろう。あれだけみんなに尊敬されている先輩だから、もういやというほど言われていることに想像が及ばなかった。そしてそれがどれだけつらいかということに。

でも、それでも尊敬していると伝えたかった。実はそれはあんまり素直じゃない表現だった。本当は、好意を持っていると伝えたかった。別にそれは恋愛関係を求めるということではなくて、とにかく好きだからいまよりも近い関係になりたいという意味で。けっきょく、私はそれを言うことができなくて、口を開くことができなかった。だって、「あなたがどんなふうになっても、能力とか全部抜きにしても、とにかく人間として好きです。尊敬というのは、ただあなたを人間として見て尊敬しているっていうことです。」その喉元まで出かかった言葉は、心の底から本当のことだとは思えなかったから。


  1. こういうのは卓越した人に限った話だろうか? ふつうの人もこれを味わう方法がある。それは親になることだ。子にとっての絶対的な存在となり、すべてを知っていて、すべてをできることを期待されることだ。全世界を相手にして、子を守る唯一無二の存在となる。親になるという経験の本質のひとつは、たぶんここにあるのではないかと思う。

人生は朝食バイキング

何人かで旅行して宿に泊まる。翌朝、朝食バイキングで、めいめい好きなものを皿に盛る。料理の選択肢には限りがあるのに、一人として同じ盛り付けの皿はない。これらはみな、それぞれの人生を映している。

人生において、決断力のある人間とない人間がいる。決断力のある人間は、これと決めたらこれで、人生をためらわず進んでいく。そういう人はときに視野が狭く見えることもあるが、それは最初からいろいろ見ることを望んですらいないのだ。別にそれでいいと思っているのだ。あれこれ見て、いろいろなものごとをつまみ食いして、世界のあちこちを訪れて、けっきょく決められずうだうだ悩んでいる「視野の広い人」になるよりも、もしかしたらベストな選択ではないかもしれないにせよ、さっさと決断して人生を歩んでいくほうが大事なのだ。

そういう人は、和食にするか洋食にするかさっさと決めて、自分なりの盛り付けをデザインしていく。けっきょくのところ、ものごとはどうにでもなるのだ。和食にしてもおいしい盛り合わせはできるし、洋食にしてもまたそれはそれでおいしく食べて一日を始められる。その意味で、もともとの二者択一はそこまで重大なものではなかったのだ。

人生でも、決めなくてはいけないことは、決めさえすればあとはどうにでもなるのだ。その後のやりようはある。とにかくまずは決めてやることが大事だ。それをいつまでも逡巡して、機を逸する方がよほど損失だ。えいや、とさっさと決められる思い切りのよさ・あきらめのよさは、有能な人に極めて広く見られるものであるように思う。だってそうではないか。今どんなに悩んでも先のことはたいしてわからない。たしかに将来に重大な影響を及ぼす決断かもしれないが、でもわからないものは仕方がないのだ。今はわかる範囲でさっさと決めて、進んだときにそのときできるベストを尽くせばいいのだ。

そうやって決められない人間は、人生の形を作っていけない。たしかに人生は彫刻みたいなもので、一回削ったら後戻りはできない。けれど、削っていかないことにはただの石の塊でしかないのだ。けっきょくのところ、人生とは頭に思い描くシナリオのことではないのだ。人生とは、あなたが実際に下す決断であり、実行に移す行動なのだ。それがわかっていない人は、朝食バイキングでも和食にするか洋食にするかを決められない。いや、やっぱりシリアルにしようかな、と迷い続ける。そうやって一周回って何があるかを確認しているうちに、いちばんおいしいおかずはだれかが取っていってしまうのだ。

決断できないことは、つまり可能性を狭められないことだ。けれど、最終的に二つの人生を同時に生きることはできない。最終的にはどちらかを選ばなければならない。選ばなければならないなら、むしろ選ぶのは早い方がよい。その方が、その未来を準備して迎えることができる。最後の最後までうだうだ悩み続けて、ぎりぎりで決めたら、用意ができてないでそのときを迎えることになってしまう。これは将来についてよく考えることとはまったくもって違うことだ。決められないでいることほど、非生産的なこともない。いつまでもいつまでもそのことに認知負荷を取られて、先に進めないのだ。そうやっているから、時間に追い立てられる人生になるのだ。時間の先を行く人生を送りたければ、さっさと決断をすることだ。