人生は朝食バイキング

何人かで旅行して宿に泊まる。翌朝、朝食バイキングで、めいめい好きなものを皿に盛る。料理の選択肢には限りがあるのに、一人として同じ盛り付けの皿はない。これらはみな、それぞれの人生を映している。

人生において、決断力のある人間とない人間がいる。決断力のある人間は、これと決めたらこれで、人生をためらわず進んでいく。そういう人はときに視野が狭く見えることもあるが、それは最初からいろいろ見ることを望んですらいないのだ。別にそれでいいと思っているのだ。あれこれ見て、いろいろなものごとをつまみ食いして、世界のあちこちを訪れて、けっきょく決められずうだうだ悩んでいる「視野の広い人」になるよりも、もしかしたらベストな選択ではないかもしれないにせよ、さっさと決断して人生を歩んでいくほうが大事なのだ。

そういう人は、和食にするか洋食にするかさっさと決めて、自分なりの盛り付けをデザインしていく。けっきょくのところ、ものごとはどうにでもなるのだ。和食にしてもおいしい盛り合わせはできるし、洋食にしてもまたそれはそれでおいしく食べて一日を始められる。その意味で、もともとの二者択一はそこまで重大なものではなかったのだ。

人生でも、決めなくてはいけないことは、決めさえすればあとはどうにでもなるのだ。その後のやりようはある。とにかくまずは決めてやることが大事だ。それをいつまでも逡巡して、機を逸する方がよほど損失だ。えいや、とさっさと決められる思い切りのよさ・あきらめのよさは、有能な人に極めて広く見られるものであるように思う。だってそうではないか。今どんなに悩んでも先のことはたいしてわからない。たしかに将来に重大な影響を及ぼす決断かもしれないが、でもわからないものは仕方がないのだ。今はわかる範囲でさっさと決めて、進んだときにそのときできるベストを尽くせばいいのだ。

そうやって決められない人間は、人生の形を作っていけない。たしかに人生は彫刻みたいなもので、一回削ったら後戻りはできない。けれど、削っていかないことにはただの石の塊でしかないのだ。けっきょくのところ、人生とは頭に思い描くシナリオのことではないのだ。人生とは、あなたが実際に下す決断であり、実行に移す行動なのだ。それがわかっていない人は、朝食バイキングでも和食にするか洋食にするかを決められない。いや、やっぱりシリアルにしようかな、と迷い続ける。そうやって一周回って何があるかを確認しているうちに、いちばんおいしいおかずはだれかが取っていってしまうのだ。

決断できないことは、つまり可能性を狭められないことだ。けれど、最終的に二つの人生を同時に生きることはできない。最終的にはどちらかを選ばなければならない。選ばなければならないなら、むしろ選ぶのは早い方がよい。その方が、その未来を準備して迎えることができる。最後の最後までうだうだ悩み続けて、ぎりぎりで決めたら、用意ができてないでそのときを迎えることになってしまう。これは将来についてよく考えることとはまったくもって違うことだ。決められないでいることほど、非生産的なこともない。いつまでもいつまでもそのことに認知負荷を取られて、先に進めないのだ。そうやっているから、時間に追い立てられる人生になるのだ。時間の先を行く人生を送りたければ、さっさと決断をすることだ。

認知のゆがみ

「うちの代は変わってる人多いよね」と誰かが言う。わたしはあいまいに同意する。「あなたの認知の歪みはどこから?」と問いたくなるのをこらえながら。

だって、そんなの錯覚に決まってるではないか。うちの代が特に変わっているなんてことあるはずないのだから。上の代も同じことを言っていたに違いないし、下の代も来年には同じことをきっと言い合っている。どうしてそのことに気づけないのだろう? きっとその人は、そうやって自分の認知を相対化することができていないのだろう。そして偉そうに言うわたしも、他の場面ではそれができていないに違いないのだ。

人間の認知は歪んでいる。確かに日常生活で犬に見えるものは犬であって、猫であることはまずないだろう。けれど人はその感覚をnaïveに延長して、自分の知覚や感覚を真実そのものだと捉えてすぎるきらいがある。


流れのある川をざぶざぶと歩いて渡ったことはあるだろうか。そのときに足に感じる流れの力強さにひるまなかっただろうか。あるいは単に歩いているときでも、強風にあおられたとき、ただの空気があれほど大きな力を持つことに驚嘆しないだろうか。

海原を航海するときは、海流や風向きを考慮して舵を切らなくては、たとえ羅針盤を持っていても目的地に到着することはおぼつかない。横風を受けているなら、舳先をまっすぐ目的地に向けるのではなくて、いくばくか風上方向に向けなくてはならない。たとえ目的地から逸れる気がしたとしても、どんなに目的地にまっすぐ向かいたい気持ちがあったとしても、ぐっとこらえて、あえてずらさなくてはならない。

同じように、自分の知覚がどのくらい歪んでいるかを観測し、それに応じてずれを相殺するよう自分の感じる「真実」からあえて外れるように進路を補正しなくては、ほんとうの真実には近づけない。このひどく直感に反する操作を行えるかどうか、それが「批判的思考」というものの重要な要素ではないか。

では、どうすれば認知のずれに対処できるか。。きっと何か外部の目印を基準にして補正してやるべきなのだろう。

たとえてみれば、星を見て海原を航海するようなもの。でも、星はそれぞれに動くなかで、どれを基準をすべきだろうか。月や火星を選んだ日には目も当てられない。惑星、という言葉は惑うようなその運動に対して付けられたそうだ。それに惑わされて帰ってこなかった人々もきっといたのではないか。どの星を選ぶかが生死を分ける。

同じように、自分の認知のズレを補正しているつもりが、そのときに使うものさしが歪んでいたら、むしろ間違いを拡大してしまう。どのものさしを選ぶかが、人生を分ける。


多数派に乗っかるのが、多くの人がすることだろう。そうしていれば、細かい心配はしなくていい。みんなが楽しいと思うことを楽しみ、みんながすることをする。メインストリームに合わせていれば、きっと大丈夫だ。

いや、そうだろうか。だって、その平均が正しいとも限らないから。そのうちに「平均」を内在化してしまい、自分なりのcreativityは失われてしまう。エキセントリックなところがなくなってしまう。みんなが賞賛するTEDトークを見てこれがイノベーションかと言っているようでは終わっている。みんなに説得力のあるプレゼンとはつまり、聴衆が聞きたいことを聞かせることなのだ。聴衆の平均に迎合することなのだ。これはソフィストの術であって、プラトンが嫌ったのもわかる。

けれどその対極へ向かうことも恐ろしいことだ。世を疎み、過激な集団に共鳴した結果、触れただけで爆発しそうなほどの認知の歪みを蓄積させてしまった人も見かける。敵味方二元思考の極北。信じるものがあれば強いのは事実だが、力強く導かれた先が地獄では救いがない。その意味で、長い歴史がある信仰を持つのであれば、それは北極星となってくれることだろう。


けっきょくのところ、簡単な正解はないのだろう。揺れ動きながら、葛藤を抱えながら、ずっと自分の認知の正しさを疑いながら、手探りで進み続けるしかないのだろう。その不安を覚えなくなってしまったときこそが、一番危ないのだろう。山を越え、谷を渡る小径を辿っているはずなのに、もしそこに高速道路が見えたなら、それはきっと蜃気楼にちがいないのだ。

かける言葉

死にたがっている人と関わることが何回かあった。その誰も死んでいないし、実際どのくらい死ぬことに近かったのかはわからない。別にそれを知りたいわけでもない。ただ、少なくともその時点では、かなり危険でどうにかしなくてはいけない状況であるように思えた。

けれど、そこで気づかされたのは、私にはそこで発する言葉が何一つないことだった。世間にはあまりに安易な言葉が多い。だれであれ悩み抜いた先でしか選択肢に入ってこない選択であることは間違いないわけで、浅い言葉をかけるのは想像力が絶望的に不足している。何日、何週間、何ヶ月、何年と悩み抜いた先に見出そうとしている結論を、他人があっさり否定することなんてできるわけがない。


がんばって、なんて言えない。あたりまえじゃないか。

わかるよ、なんて言えない。だって、わかるわけないもの。目の前にいても、あなたが見る世界を何一つ私は見ていないことくらい知っている。

そばにいるよ、なんて言えない。だって、そんなことできないもの。そんな無責任なことは言えない。

きっといいことあるよ、なんて言えない。だって、そんなことわからないじゃん。今まであったいいことも悪いこともひっくるめて今そこにいるあなたに、そんなでたらめなことは言えない。

周りが悲しむよ、なんて言えない。一番悲しいのはあなただってわかっているから。

もう一日だけでも、なんて言えない。そうやって毎日を過ごしてきたであろうあなたに。次こそ宝くじ買えば当たるかもしれない、と言うのと同じではないか。


考えてみると、そこでかける言葉がないのはあたりまえなのかもしれない。神様ですら、何も言ってやれないのだ。だからタブーなのだ。人の子の身にして、そこで何ができるだろうか。

後知恵

後知恵だな、と思うことがよくある。よくわからないタイミングで妙に頭が回る。そのときだけ機関銃のように神経回路が発火して、どんどんアイデアが湧き出す。忘れる前に急いで書き留める。もし書き留められずに忘れてしまったら、もう戻ってこないから。普段、そんなに頭が回ることはけっしてない。いつもそのくらい頭が回ったらどれだけよいだろう。

こういうことが起きやすいのは、朝シャワーを浴びているときと、頭を使うイベント(プレゼンテーションとか)の数時間後くらい。共通するのは「頭を回転させようとした後」なのだろう。朝っていうのは、夢の中で思考が飛び回っていた後だから。頭を使わなきゃいけないその場で思考が湧き出してほしいのに、実際は決まって一人で静かなところにいるときや、歩いているときとか、今じゃなくていいのにって思うタイミングにしか、思考の奔流はやってこない。

残念ながら頭のいい人にはなれそうにないから、せめてこういう後知恵を得る機会を増やして、活かしていくしかないのだろう。そのためには、ない知恵をしぼることをがんばるしかないのだろう。なんとか知恵を出すことを試みないことには、きっと後知恵も出てこないから。

本当のミニマリスト

少し古い話題だが、ミニマリストなるものが一部で流行していたようだ。それはただアフィリエイト目的のブログが煽っていただけの実態のない現象だという説明も一理あるが、とりあえず実在した価値観だと考えることにしよう。

ミニマリストを人々がどう定義するのかは知らない。ただ、簡単に言えばモノを減らすことなのだろう。そうしたほうが様々な煩わしさから解放される。服は最低限だけ持てばいい。勉強机はなくてもカフェに行けばいい。調理器具はなくてもコンビニ弁当や宅配サービスを利用すればいい。特に都市部では住居費がばかにならないので、そうやって極力家賃が安い、寝られるだけのミニマムな部屋に住んで、その代わりにもろもろ外部のサービスを利用するというのはありだと思う。身軽に引っ越せるというのもメリットだろう。

実際、全てを自分で所有するモデルは無理があると思う。都会に住むなら、と再び留保した上でなら、自家用車を持つのは経済的合理性に欠けるし、家にエクササイズ道具を揃えるよりもスポーツジムの会員になったほうがいいだろうし、家庭菜園が夢だとしても庭付きの家を買うよりもレンタルの農地スペースを借りたほうが筋がいいこともしばしばあるだろう。資産を持つのも悪いことではないだろうし、豊かになる人はうまいこと資産を運用していることは事実だが(だって労働で稼げる金はたかが知れているから!)、それを適切に運用するために必要な認知負荷はかなり大きいこともまた事実だ。資産管理を趣味として楽しんでできる人ならともかく、そうではない人間は割り切って生きたほうがいいのではないだろうか。

そしてミニマリズムというのは単に「所有かレンタルか」という二項対立を超えて、「執着を減らす」思想なのだろう。「別にそれがなくてもいいではないか。困りはしないではないか。だったらいらない。物欲はなるべく抑えるべきもの。」その考え方もまた、消費主義に毒されたこの世の中で重要なものだと思う。もっとも、それほど新しい考え方ではないにせよ。

ただ、ある種のミニマリストは、というかネットで見かけるその手の人はほぼ例外なく、そういう合理性追及の範囲で妥当な線を越えて、ただの競争に陥っているように思う。それは承認欲求をかけた競争だ。激烈なまでの執着を感じさせる。端的に言って、矛盾しているように思われる。

むしろ切り捨てるべきは、こういう邪念なのだ。人に見て欲しい、認めて欲しい、尊敬して欲しい、そういう考えは、生きることを苦しくする。そういった欲求の基盤となる人間関係だって、けっきょくのところ悩みと苦痛の源でしかない。物への欲望と同じだけ悪いものだ。あるいはもっと悪いかもしれない。

何も求めるなとは言わない。けれどこの短い人生を生きるなら、求めるものは絞ったほうがよい。世間に流されて、あれもこれもと目移りしてはいけない。だれから好かれたいとか、評価されたいとか、そういう空虚なことを願わない。ただ自分の成し遂げたい仕事を成し遂げる。それだけを目標に生きたいものだ。生きている限り、自分は自分とともにあり、それだけは唯一失うことがない。物は壊れ、名声はかげり、家族や友人は先立ち、自らの記憶すら薄れゆく。どうしたら、後悔のない人生が送れるだろうか。あるいは「後悔しないこと」を求めることも、また空しい執着なのかもしれない。

言葉が好きな人

  • 人と話しているとき自分の言葉遣いが正確でなかったことに気づいたらわざわざ話題を戻してでも訂正せずにはいられない人。
  • ほかの人の言葉遣いが間違っている気がするけどひょっとしたら自分の勘違いかもしれないからと黙っておく人。
  • そして後で確認して自分が正しかったら安心する人。
  • いいなと思う言葉や表現に出会ったらどこかにメモする人。
  • あるいはメモしそびれて思い出せなくなりしばらく後悔を引きずる人。
  • 辞書を読み耽ったことがある人。
  • 辞書による語義の違いについて好き嫌いが言える人。
  • 類語辞典と向き合いながらどの言葉が一番しっくりくるかああでもないこうでもないと考えてしまう人。
  • 好きな単語やフレーズがほかの言語だとどう言うのかが気になって知りもしない言語に翻訳してしまう人。
  • 文書を作成するときにこの内容だったらどのフォントが合うかなといつも考える人。
  • Twitterで文字数いっぱいまで書いてしまいがんばって推敲して収める人。
  • それでも文字数が足らず諦めて連ツイする人。
  • SNSにしばしば思いの丈を何千文字も書いてぶちまけてしまう人。
  • 寺社仏閣に行くと建物の写真は撮らなくても気になる説明板の写真だけは撮ってしまう人。
  • 句読点の打ち方からだれの書いた文章かわかる人。
  • よくしゃべるけどどんな文章を書くのかは知らない人からメールが来ると「文字にしても言葉遣いの癖はやっぱりこの人だな」と思ってにやにやしてしまう人。
  • 日本語学習者に言葉の意味を聞かれたとき類語や英語とのニュアンスの違いを含めて相手が求める以上の詳細まで説明してしまう人。
  • 文章で人を好きになったことがある人。

予告編だと思ったら本編だった話

祖父母に会うたびに、いたく向こうがよろこぶ。ただ自分が顔を見せただけなのに。それは存在を肯定されたようでうれしいけど、どことなくむずがゆく思っていた。――これは、少なくない人に共通する、現在ないし過去に覚えた感傷なのではないだろうか。

でも、なぜ? どうして、あんなにうれしそうにするのか?

「そりゃあ子孫の繁栄を願う生き物としての根源的な感情だからですよ」――そうやってわかったふうな口ぶりをする人がいるかもしれない。でも、そんな説明では私は納得しない。だってあまりに浅い理解じゃあないか。老境に人が抱く気持ちを何一つ描いてみせていないではないか。


人生というのは、出生から成人までがその本編で、あとは余韻が響いているだけなのだ。人生の旋律は出生から成人まで鮮やかなリズムを奏でるが、そこからは先細っていくだけなのだ。だから、人はカノンのように旋律を後から後から重ね合わせる。それが子孫だ。

自分自身の幼年期から青年期を生き終ったら、もう人生の一周目は終了だ。次は子どもを持つことで二周目を生きる。そのうちに子どもも大人になり巣立っていく。そうしたら、孫を待ち遠しく思う。孫が生まれれば、三周目のはじまりだ。こうやって後から後から旋律を重ねていかないと、人生はどんどん味のしないものになっていくのだ。それだから「孫はまだか」と聞くのだ。だから、孫にやけに甘いのだ。自分の人生が出がらしのようになってしまっているから。自分の人生を擬似的に子や孫の人生に重ね合わせるのだ。そうすることで、人はもう一度生きようとするのだ。

もちろんそれ以外の人生のありようもあるだろう。でも実際のところ、50代や60代、そしてさらに先まで自分の人生の炎を燃え盛らせ続けることは、とても難しいのだと思う。だれだって焚き火のあとに残った炭のようになりたいわけじゃない。ただ、そうなってしまうのだ。

歳を重ねるにつれて人はいろいろなものを失う。何よりも失うのは可能性だ。そして可能性こそが、人が生きるためにもっとも必要なものだ。絶対的に越えられない人生の終わりは、肉体の墓場である以上に、可能性の墓場だ。そして子孫というのは、なんとそんな自分の死を越えて生きてゆくのだ。それって、考えてみるととんでもないことじゃないだろうか1

その意味で、子を持つか持たないかということは、人生のうちでのひとつの大きな選択、というものにとどまらない。人生の定義を決定的に分岐させる選択肢だ。子を持つことは思考停止を許してくれる。あなたの子には可能性があり、さらに孫にはもっと未知の可能性が広がっている。あなたの人生の意味は、あとから子孫によって拡大されていくし、それがどんなものになるかは考えてもわかるものではない。だってまだ不確定な可能性の段階なのだから。その不確定性は夢を見させてくれる。とりあえず子どもが元気にしていれば、人生に満足して死を迎えることができる。子孫に語り継がれる自分を夢想しながら。しかし子を持たなかったらどうだろう。あなたの人生はあなたの死をもって総決算だ。それに価値はあったか? いつまで覚えていてもらえるか? そのときあなたの死は、人生最大の締め切りとなる。まさに"deadline"じゃあないか。いままでの人生で無邪気にも抱いてきた目標、理想、夢、それらの想いが多重債務となって押し寄せる。だからこれからの人生であなたがやらなくてはいけないただひとつのことは、死神がやってくる前に債務整理をすることだ。目標は叶え、届かない夢は成仏させる。そうやって少しでも安らかに死を迎えられるよう準備することだ。


何のことはない、私の好きな作家、ミシェル・ウェルベックがそのものずばりを言っていた。

思春期は人生の重要な一期間というだけではない。人生というものを、完全に字義どおりに論じることのできる唯一の期間だ。十三歳前後には強い欲動が爆発する。その後、それは徐々に減少する。もしくは型どおりの行動になる。ともかく不活動状態になる。最初の爆発が激しいと、何年も不安定な状態のままになるかもしれない。電気力学で「過渡状態」と呼ばれる状態だ。しかし徐々に振動は遅くなり、ついには侘しい穏やかな長い波になる。この瞬間から決着はついている。その後の人生は死の準備でしかなくなる。より乱暴で大雑把な言い方をすれば、大人は衰弱した青年ともいえる。 ――『闘争領域の拡大』ミシェル・ウェルベック

そう、あの20年ほどが人生の本編だったのだ。いままでは予告編だと思っていたあれが。まだ人間として未完成で、大人になるまでの準備段階だと思っていたあの期間が。あなたはきっと、あれはまだ助走だと思っていたのではないか? 大人になったらそこからがスタートだと思っていたのではないか? まだレースははじまっていないと思っていたのではないか? それはとんでもない間違いだった。そして、取り返しのつかない間違いだった。人生の本編は、もう終わってしまっているのだ。残されているのは「死の準備」だけなのだ。あのころ以上に、人生が人生である時期はもう存在しなくて、それは二度とやってこないのだ。あなたはちゃんと生きたか? そう問うことにも、もはや意味はない。


  1. 若いうちはピンとこないだろうけれど、ちょっと冷静になって想像力を膨らませてみてほしい。世の中に何を残したって、どうせ世の中はあなたがいなくなっても回っていくのだ。あなたが存在した痕跡は、波打ち際に作った砂の城のように、時間の波に飲み込まれていくのだ。あなたの存在は、家系図のインクのしみになって、そこを虫が食っただけで消失してしまうのだ。なのに、子孫ときたら、あなたがいないと決して存在しない、あなたがこの世にいた証なのだ。おまけに、勝手に増えて未来に続いていくのだ!