後知恵

後知恵だな、と思うことがよくある。よくわからないタイミングで妙に頭が回る。そのときだけ機関銃のように神経回路が発火して、どんどんアイデアが湧き出す。忘れる前に急いで書き留める。もし書き留められずに忘れてしまったら、もう戻ってこないから。普段、そんなに頭が回ることはけっしてない。いつもそのくらい頭が回ったらどれだけよいだろう。

こういうことが起きやすいのは、朝シャワーを浴びているときと、頭を使うイベント(プレゼンテーションとか)の数時間後くらい。共通するのは「頭を回転させようとした後」なのだろう。朝っていうのは、夢の中で思考が飛び回っていた後だから。頭を使わなきゃいけないその場で思考が湧き出してほしいのに、実際は決まって一人で静かなところにいるときや、歩いているときとか、今じゃなくていいのにって思うタイミングにしか、思考の奔流はやってこない。

残念ながら頭のいい人にはなれそうにないから、せめてこういう後知恵を得る機会を増やして、活かしていくしかないのだろう。そのためには、ない知恵をしぼることをがんばるしかないのだろう。なんとか知恵を出すことを試みないことには、きっと後知恵も出てこないから。

本当のミニマリスト

少し古い話題だが、ミニマリストなるものが一部で流行していたようだ。それはただアフィリエイト目的のブログが煽っていただけの実態のない現象だという説明も一理あるが、とりあえず実在した価値観だと考えることにしよう。

ミニマリストを人々がどう定義するのかは知らない。ただ、簡単に言えばモノを減らすことなのだろう。そうしたほうが様々な煩わしさから解放される。服は最低限だけ持てばいい。勉強机はなくてもカフェに行けばいい。調理器具はなくてもコンビニ弁当や宅配サービスを利用すればいい。特に都市部では住居費がばかにならないので、そうやって極力家賃が安い、寝られるだけのミニマムな部屋に住んで、その代わりにもろもろ外部のサービスを利用するというのはありだと思う。身軽に引っ越せるというのもメリットだろう。

実際、全てを自分で所有するモデルは無理があると思う。都会に住むなら、と再び留保した上でなら、自家用車を持つのは経済的合理性に欠けるし、家にエクササイズ道具を揃えるよりもスポーツジムの会員になったほうがいいだろうし、家庭菜園が夢だとしても庭付きの家を買うよりもレンタルの農地スペースを借りたほうが筋がいいこともしばしばあるだろう。資産を持つのも悪いことではないだろうし、豊かになる人はうまいこと資産を運用していることは事実だが(だって労働で稼げる金はたかが知れているから!)、それを適切に運用するために必要な認知負荷はかなり大きいこともまた事実だ。資産管理を趣味として楽しんでできる人ならともかく、そうではない人間は割り切って生きたほうがいいのではないだろうか。

そしてミニマリズムというのは単に「所有かレンタルか」という二項対立を超えて、「執着を減らす」思想なのだろう。「別にそれがなくてもいいではないか。困りはしないではないか。だったらいらない。物欲はなるべく抑えるべきもの。」その考え方もまた、消費主義に毒されたこの世の中で重要なものだと思う。もっとも、それほど新しい考え方ではないにせよ。

ただ、ある種のミニマリストは、というかネットで見かけるその手の人はほぼ例外なく、そういう合理性追及の範囲で妥当な線を越えて、ただの競争に陥っているように思う。それは承認欲求をかけた競争だ。激烈なまでの執着を感じさせる。端的に言って、矛盾しているように思われる。

むしろ切り捨てるべきは、こういう邪念なのだ。人に見て欲しい、認めて欲しい、尊敬して欲しい、そういう考えは、生きることを苦しくする。そういった欲求の基盤となる人間関係だって、けっきょくのところ悩みと苦痛の源でしかない。物への欲望と同じだけ悪いものだ。あるいはもっと悪いかもしれない。

何も求めるなとは言わない。けれどこの短い人生を生きるなら、求めるものは絞ったほうがよい。世間に流されて、あれもこれもと目移りしてはいけない。だれから好かれたいとか、評価されたいとか、そういう空虚なことを願わない。ただ自分の成し遂げたい仕事を成し遂げる。それだけを目標に生きたいものだ。生きている限り、自分は自分とともにあり、それだけは唯一失うことがない。物は壊れ、名声はかげり、家族や友人は先立ち、自らの記憶すら薄れゆく。どうしたら、後悔のない人生が送れるだろうか。あるいは「後悔しないこと」を求めることも、また空しい執着なのかもしれない。

言葉が好きな人

  • 人と話しているとき自分の言葉遣いが正確でなかったことに気づいたらわざわざ話題を戻してでも訂正せずにはいられない人。
  • ほかの人の言葉遣いが間違っている気がするけどひょっとしたら自分の勘違いかもしれないからと黙っておく人。
  • そして後で確認して自分が正しかったら安心する人。
  • いいなと思う言葉や表現に出会ったらどこかにメモする人。
  • あるいはメモしそびれて思い出せなくなりしばらく後悔を引きずる人。
  • 辞書を読み耽ったことがある人。
  • 辞書による語義の違いについて好き嫌いが言える人。
  • 類語辞典と向き合いながらどの言葉が一番しっくりくるかああでもないこうでもないと考えてしまう人。
  • 好きな単語やフレーズがほかの言語だとどう言うのかが気になって知りもしない言語に翻訳してしまう人。
  • 文書を作成するときにこの内容だったらどのフォントが合うかなといつも考える人。
  • Twitterで文字数いっぱいまで書いてしまいがんばって推敲して収める人。
  • それでも文字数が足らず諦めて連ツイする人。
  • SNSにしばしば思いの丈を何千文字も書いてぶちまけてしまう人。
  • 寺社仏閣に行くと建物の写真は撮らなくても気になる説明板の写真だけは撮ってしまう人。
  • 句読点の打ち方からだれの書いた文章かわかる人。
  • よくしゃべるけどどんな文章を書くのかは知らない人からメールが来ると「文字にしても言葉遣いの癖はやっぱりこの人だな」と思ってにやにやしてしまう人。
  • 日本語学習者に言葉の意味を聞かれたとき類語や英語とのニュアンスの違いを含めて相手が求める以上の詳細まで説明してしまう人。
  • 文章で人を好きになったことがある人。

予告編だと思ったら本編だった話

祖父母に会うたびに、いたく向こうがよろこぶ。ただ自分が顔を見せただけなのに。それは存在を肯定されたようでうれしいけど、どことなくむずがゆく思っていた。――これは、少なくない人に共通する、現在ないし過去に覚えた感傷なのではないだろうか。

でも、なぜ? どうして、あんなにうれしそうにするのか?

「そりゃあ子孫の繁栄を願う生き物としての根源的な感情だからですよ」――そうやってわかったふうな口ぶりをする人がいるかもしれない。でも、そんな説明では私は納得しない。だってあまりに浅い理解じゃあないか。老境に人が抱く気持ちを何一つ描いてみせていないではないか。


人生というのは、出生から成人までがその本編で、あとは余韻が響いているだけなのだ。人生の旋律は出生から成人まで鮮やかなリズムを奏でるが、そこからは先細っていくだけなのだ。だから、人はカノンのように旋律を後から後から重ね合わせる。それが子孫だ。

自分自身の幼年期から青年期を生き終ったら、もう人生の一周目は終了だ。次は子どもを持つことで二周目を生きる。そのうちに子どもも大人になり巣立っていく。そうしたら、孫を待ち遠しく思う。孫が生まれれば、三周目のはじまりだ。こうやって後から後から旋律を重ねていかないと、人生はどんどん味のしないものになっていくのだ。それだから「孫はまだか」と聞くのだ。だから、孫にやけに甘いのだ。自分の人生が出がらしのようになってしまっているから。自分の人生を擬似的に子や孫の人生に重ね合わせるのだ。そうすることで、人はもう一度生きようとするのだ。

もちろんそれ以外の人生のありようもあるだろう。でも実際のところ、50代や60代、そしてさらに先まで自分の人生の炎を燃え盛らせ続けることは、とても難しいのだと思う。だれだって焚き火のあとに残った炭のようになりたいわけじゃない。ただ、そうなってしまうのだ。

歳を重ねるにつれて人はいろいろなものを失う。何よりも失うのは可能性だ。そして可能性こそが、人が生きるためにもっとも必要なものだ。絶対的に越えられない人生の終わりは、肉体の墓場である以上に、可能性の墓場だ。そして子孫というのは、なんとそんな自分の死を越えて生きてゆくのだ。それって、考えてみるととんでもないことじゃないだろうか1

その意味で、子を持つか持たないかということは、人生のうちでのひとつの大きな選択、というものにとどまらない。人生の定義を決定的に分岐させる選択肢だ。子を持つことは思考停止を許してくれる。あなたの子には可能性があり、さらに孫にはもっと未知の可能性が広がっている。あなたの人生の意味は、あとから子孫によって拡大されていくし、それがどんなものになるかは考えてもわかるものではない。だってまだ不確定な可能性の段階なのだから。その不確定性は夢を見させてくれる。とりあえず子どもが元気にしていれば、人生に満足して死を迎えることができる。子孫に語り継がれる自分を夢想しながら。しかし子を持たなかったらどうだろう。あなたの人生はあなたの死をもって総決算だ。それに価値はあったか? いつまで覚えていてもらえるか? そのときあなたの死は、人生最大の締め切りとなる。まさに"deadline"じゃあないか。いままでの人生で無邪気にも抱いてきた目標、理想、夢、それらの想いが多重債務となって押し寄せる。だからこれからの人生であなたがやらなくてはいけないただひとつのことは、死神がやってくる前に債務整理をすることだ。目標は叶え、届かない夢は成仏させる。そうやって少しでも安らかに死を迎えられるよう準備することだ。


何のことはない、私の好きな作家、ミシェル・ウェルベックがそのものずばりを言っていた。

思春期は人生の重要な一期間というだけではない。人生というものを、完全に字義どおりに論じることのできる唯一の期間だ。十三歳前後には強い欲動が爆発する。その後、それは徐々に減少する。もしくは型どおりの行動になる。ともかく不活動状態になる。最初の爆発が激しいと、何年も不安定な状態のままになるかもしれない。電気力学で「過渡状態」と呼ばれる状態だ。しかし徐々に振動は遅くなり、ついには侘しい穏やかな長い波になる。この瞬間から決着はついている。その後の人生は死の準備でしかなくなる。より乱暴で大雑把な言い方をすれば、大人は衰弱した青年ともいえる。 ――『闘争領域の拡大』ミシェル・ウェルベック

そう、あの20年ほどが人生の本編だったのだ。いままでは予告編だと思っていたあれが。まだ人間として未完成で、大人になるまでの準備段階だと思っていたあの期間が。あなたはきっと、あれはまだ助走だと思っていたのではないか? 大人になったらそこからがスタートだと思っていたのではないか? まだレースははじまっていないと思っていたのではないか? それはとんでもない間違いだった。そして、取り返しのつかない間違いだった。人生の本編は、もう終わってしまっているのだ。残されているのは「死の準備」だけなのだ。あのころ以上に、人生が人生である時期はもう存在しなくて、それは二度とやってこないのだ。あなたはちゃんと生きたか? そう問うことにも、もはや意味はない。


  1. 若いうちはピンとこないだろうけれど、ちょっと冷静になって想像力を膨らませてみてほしい。世の中に何を残したって、どうせ世の中はあなたがいなくなっても回っていくのだ。あなたが存在した痕跡は、波打ち際に作った砂の城のように、時間の波に飲み込まれていくのだ。あなたの存在は、家系図のインクのしみになって、そこを虫が食っただけで消失してしまうのだ。なのに、子孫ときたら、あなたがいないと決して存在しない、あなたがこの世にいた証なのだ。おまけに、勝手に増えて未来に続いていくのだ!

本気を出すこと

本気を出さない人がいる。そういう人は、だいたい忙しいふりをしている。いや、本当に忙しいのだろう。他のことが忙しいと言えば、ごまかせることを知っているのだろう。でも、本当は本気を出すのが怖いのだ。ある一つのことに全力で取り組んで、それが評価されなくて、報われなかったら怖いから。そういう生き方はいけない。傷つくことを恐れてはいけない。

本気でぶつかりなさい。もう言い訳ができないように。

最初から傷つくことを拒絶することは、強さではない。それは弱さだ。打たれ強くあることは、逃げることとは違う。たくさん血を流さなくてはいけない。そしてまた立ち上がるのだ。血まみれになっても、一矢報いなくてはいけない。そのためには、逃げ腰になってはいけない。言い訳だけ上達して何になろうというのか?

自らのださいところ、苦手なところ、及ばないところ、バカなところ、しょうもないところ、それを隠そうとしてはいけない。それは成長から遠ざかることだ。自らの仕事に自分の一部を注ぎ込むくらいがんばらなくてはいけない。少なくともその時点では納得のいくできばえにすること。後から見たらしょぼくてもいい。それは成長の証。なのに、はなから納得いくまで完成させず、最初から自虐して、最初から言い訳して、最初から謝って、それじゃあどうしようもない。

本気を出して、限界まで完成度を高めなさい。もし手を抜くことが要領の良さで、それが賢い生き抜き方だと勘違いしているなら、一生かかっても小賢しい人間にしかなれない。そんな人間としてあなたは死にたいのか、それとも一筋の光を放つ人間として死にたいのか。

神様への反抗

もう会うことのないであろう人にいきなり連絡を取って会ってみる。降りるはずのない駅で降りてみる。いつもの目的地の反対側の出口で駅を出る、自分の趣味じゃなかったはずの服を買ってみる。そうやって、神様が定めた因果の円環ではきっと起きなかったことをするのがちょびっと好きだ。予定された運命に抗うというには大げさすぎるけど、「神様、そう思うようにはさせないよ」と心の中でつぶやく。

そういう性質の面では一部の人がいわゆるナンパという行為に執着するのも同じかなと思い至る。よく、相手への征服感だとか言うが、それでは筋が通らない。だって、もしそれであればあんなにも関係性が早く特定の段階にまで達することにこだわる意味はないのではないか。相手を手に入れたいだけなら、その所要日数はそこまで関係ないだろう。

そうではなくて、彼らは運命を、神様を、征服したいのだと思う。自分の行動が、言葉が、意思が、それ抜きには生じ得なかった事象を劇的に生じせしめる力を持つことを確かめたいのだと思う。彼らは、自分の人生を、自分の手中に取り戻したい、あるいはせめて取り戻したように感じたいのだ。彼らは、愛を証明したいのではない。彼らの自由意志を証明したいのだ。

この世の中では、人は何かとレールに乗ってしか生きられない。受験にせよ、就職にせよそうだ。自分が自由に何かを願い、それを自分の力で達成する、それはひどく難しい。いつだって私たちは誰かに仕組まれた願いを持ち、誰かに仕組まれた努力をし、誰かに仕組まれた人生を生きる。とりわけどんどん情報量の増える現代の社会で、個人の運命は予測可能性の手中に収まろうとしている。あなたが何年生きるか、あなたがどんな商品を次に買うか、あなたが犯罪に手を染めるか。そんなことがわかってしまう。なんなら生まれてくる前からだって、あなたの知性がどこまで及ぶかが推定できてしまう。あなたの努力、あなたの意思があなたの人生に占める領土はどんどん脅かされるようになっている。

それは「何者にもなれない自分」という事実が、ますます重みを増してのしかかるということだ。言い訳は通用しない。何者かになりうる道は開かれている。なんならいますぐユーチューバーになればいい。でも、あなたも知っているように、あなたは何者にもなれない。私も何者にもなれない。可能性は閉ざされ、必然性だけが人生に横たわっている。身の程を知りなさい。そんな声が聞こえる。そうして、死ぬまでただ生き続けるしかない。絶望しながら。「死に至る病」を抱えながら。

だからせめて反乱を企てる。論理的必然性の連環から逃れようとする。過去や現在を踏まえて合理的に筋の通ることをしている限り、私たちは可能性を手にできない。それは、論理の機械であるコンピュータが本物の乱数を生成できないのと同じだ。だから合理性はこんなにも息苦しく感じるのだ。それは解を一意に定める呪いだから。合理性は自由意思の敵だ。だから人は酒を飲むのだ。合理性の呪縛から逃れるために。

いますぐ逃げ出そう。無計画に旅に出ることにしよう。電子機器も、地図も、時刻表もすべて投げ捨てて。およそ情報というものは、ことごとく合理性の手先だから。

過去から自由になること:自分の外にある自分

「自分」は自分の外にある。自分が何者であるかは、自分が持っている物、自分がいる場所、自分の人間関係、そういうものによって規定される。単に外からそういうふうに見られるというわけではない。自意識の上でも、全面的に影響されるのだ。自分とは、一つの身体の中に閉じたカタマリではなくて、自分とその周囲が総体として作り出す「場」に存在するものなのだ。

自分というのは一面的存在ではない。ある時点の自分は複数のコミュニティに属して複数の顔を持つし、また時間の経過とともに自分は変わっていく。親といたときの自分と、学校での自分、大学に進学してからの自分、就職してからの自分、あるいは自分の家庭を持ってからの親としての自分。さらには孫に対しての自分。75歳のあなたがいたとして、去年孫からもらったプレゼントと、20歳の時に恋人からもらったプレゼントがあったとする。どちらを身につけるかで、あなたの人物像、振る舞いそのものが変わってくるのではないだろうか。だから人はゲンを担ぐということをするのだ。何か重要な勝負に勝ったときに身につけていたものを、その後も事あるごとに身につけるのだ。その時の自分が現在に宿ると信じて。

そう、物には自分自身の一部が宿っている。それも、その物を使っていた時系列上の自分が。中学生のころから使っているポーチ、大学生のときにプレゼントしてもらってずっとつけている腕時計。新社会人のときにもらってそれ以来使っているペン。そういう物品には、当時の自分の残滓が付着している。それを使うたびに、当時の記憶が少し戻ってくる。ポジティブな意味づけができることもあれば、その逆もあるだろう。別れた恋人にもらったものは捨てるかどうかという論争はよく見かける。親の形見も同じようなものだろう。そこに表象されるのは恋人といた自分、親といた思い出、そしてそのころの記憶。

場所も記憶と密接に結びつく。駅の階段、交差点の風景、スーパーのにおい。街並みはしだいに変わっても、その場所の痕跡はそうそう消えるものではない。だから故郷に帰ってることが人にとって大きな意味を持つ。過去の場所は自分を当時に引き戻す。

人間関係もまた、自分の外の自分であり、現在と過去をつなぐものだ。人生の各ステージにおいて、人のつながりがある。そしてやがて離れる。80代の祖父母も、学校の同級生と会うときはまるで当時に戻ったかのように話をしていた。そう、他人との関係もまた、時間軸を持っている。あなたの過去と現在のあなたを結びつける。それだけではなく、他者の記憶にあるあなたと、現在他者の眼に映るあなたの間も結びつける。多層的な連関だ。

果ては形のない習慣によっても、やはり人は過去を映し出す。帰宅してからの風呂や食事や娯楽の順番、洗濯物のたたみ方、ノートの取り方。そして口癖の一つ一つ。そういうものはどこで身につけたものだろうか? 誰と、いつ? そのすべてが、あなたという人間を構成し、あなたをあなたの歴史と分かちがたくつないでいる。


そうやって、人が過去と結びついていることはかけがえのない価値を持つことがしばしばある。そうやってしか、自分を保てないことがある。特に、それは高齢になったときの命綱になってくる。

しかし問題は、人はときに変わらなくてはいけないことだ。特に若いときには過去の自分から離れて成長していかないといけないし、過去に何か乗り越えなくてはならないものを抱えているときはなおさらだ。そういうとき、持ち物、住む場所、人間関係、そして習慣や言葉を変えることが自分の変化を助けると思う。まだ使えても古いものは捨てるべきだ。あえて引っ越すべきだ。意識して新しいコミュニティに参加してみるべきだ。過去の自分から自由になるために。

ところが現代社会の問題は、いつまでもいつまでも他人と密につながっていられることだ。交通手段と通信手段の発展がそれを可能にしてしまった。過去の人間関係に浸っている限り、自分は過去に縛りつけられる。「大学デビュー」が可能だったのは、家族や旧友と離れて、過去からの他者の視線が遮断されるタイミングだったからだ。今はそれは難しい。たとえ会ったり写真を送ることがなかったとしても、テキストでやりとりしているだけで、内面化された過去の人間の視線が常に意識されて、自分のキャラクターを変えることは困難になる。

だから、ときにはきっぱりと次に進んだ方がいい。もちろん縁は保っておいた方がいいこともたくさんあるが、少なくともそれにどっぷりになってはいけない。新しい場所で新しい自分として新しい関係を築くべきだ。ときどき、新しい場所に移ったはずなのにうまく馴染めずに、過去の関係に逃避してそちらとばかり付き合う人がいる。慣れるまでしばらくはしょうがないこともあるかもしれないが、そういうのを続けるのは良くないことだ。


そして過去を離れ、自分を変えたいとき、実家暮らしは最悪だ。過去を映し出す大量の物があり、変わらない街にあり、そしてかつて一番大きな存在であった親がいて、自分はその子という立場に固定される。何も思わずに実家に暮らしていける人がいたとしたら、その人はそれまでの過去を全面的に肯定できている人であり、子どものころから精神性があまり入れ替わっていない人なのだと思う。きっと、過去を振り返ってもつらいことがあまりないのだろう。

そういう人は、時間性の強い人だ。現在に存在するだけではなくて、過去にも同時に存在している。さらに未来にも存在している。自分の幼少期、現在の自分、そして老年の自分が、全部一体つながって、その人をなしている。

私はそうはなれないから、実家を離れたし、昔から使っているものを捨て始めている。人間関係を派手に切ろうとは思わないが、こうやって新しいブログを作り、新しい自分を作っている。そうやって、過去から自分を自由にしたいと思っている。