「国際人になりたい」のパラドックス

私はある時期「国際機関で働きたい」とか思っていた口だ。そうすることが、私に国を問わない自由なキャリアを与えると信じていたから。

ところが、これはまったく逆であることにあるとき気づいた。国際機関というのは、要するにNation Statesがその利害関係をめぐってぶつかりあう戦場なのだ。味方がいて、敵がいる。そこであなたは日本の旗を背負って、外交という場で戦う兵士にならなければならないのだ。ビジネスのためでもなく、学問のためでもなく、ただ国益のために。だって、国際機関というのは各国が金を出し合って作った闘技場なのだから。国のために尽くさなければならないのは他の公務員と一緒だが、違うのは他の国から、他の国の国益に仕えるために来ている人がいることだ。彼らと関わって、時に協力し、時に出し抜いて、相手の利益を減じてでも自分の利益を増やさなければならない。それはユートピア的に幻想している万国仲良くみたいな世界とはぜんぜん違う。誰よりもマキャベリを師にしないといけない立場になる。それはあなたの望んだ「国際性」だろうか?

似たようなパラドックス外資系企業でも生じる。英語ができるから外資系企業に入れば多国籍な仕事ができる、というのはだいたい間違いなのだ。英語ができることは前提条件で、それは雇われる理由ではない。あなたが雇われるのは、日本語ができ、日本社会で振舞うための文法に通じているからなのだ。それがあなたの強み。だから、仕事は日本の顧客を獲得し、接待し、本国との間でつなぐというものになる。日本のめんどくさい慣習から逃れられるどころか、むしろそういう慣習、たとえば上座下座とか、ビールの注ぎ方とか、そういう文化を知っていることが必要な場面ばかりに投入されるようになる。日本の将来が傾いたら、あなたの将来も傾く。そう、真に「グローバル感覚」で見たら日本文化はなんともエキゾチックな異国の文化なのだ。だから、そこをつなぐ大使としてあなたが必要とされるのだ。それだって、立派な国際性に違いない。でも、それはあなたが望んだ「国際性」だろうか?

ここにパラドックスがある。国際人になりたかったら、往々にして「国際的」ではないことをした方がいいのだ。国際的ではないというのは国内的であるということではなくて、無国籍的であり、地理的政治的文脈を持たず、世界のどこにいっても同じであるものを勉強するべきだということだ。けっきょく、自由なキャリアを獲得するにはほかの強みが必要だ。たとえば凄腕ITエンジニアなら、世界のどこに行っても雇ってもらえるし、それは技術的な強みで雇われるのであって、日本というルーツに縛られることはない。ほかの専門性でも、程度の差はあれどちゃんと磨けば世界に通用するものは多いだろう。それが、たしかなキャリアを築く方法。

そう考えると、「世界に出るには日本文化を知ることが大切。だからまずは英語で日本文化を説明できるように練習しましょう。日本の文学を読んで、歴史も知りましょう。知らずに世界に出たら恥ずかしい思いをしました。」というような言説の正体がわかってくる。それは、ほかに何も売り物がない人のための教訓なのだ。ほかに話すネタがないから、せめて自分の国のことくらい知っているだろうと相手もそういう話題を振ってくるのだ。中にはまれに日本に関心を持っている人もいるとはいえ、ほとんどの人にとっては日本のことなどどうでもいい。ちゃんと世界情勢がわかっているほうがよほど共通の話題ができる。そして何より、自分はこれなら語れるという専門性を持つほうがはるかに大事だ。それが本当に国際人になる道だ。

一方でこれは「英語よりも中身」という言説に与するわけでもない。端的に、両方やれということだ。英語は前提条件であって、欠けていたら話にならない。「英語よりもまず何を話すか」とか「英語よりもまずは日本語力」とか言う連中に中身があった試しがないし、日本語力や論理性が高かった試しもない。英語界隈はふざけた言説であふれている。たぶんカモがカネになるからなのだろう。英語さえ話せればバラ色の未来だと思うのは馬鹿げているし、話せなくてもなんとかなると思うのもまた馬鹿げている。そうあってほしいと思う気持ちはわからないでもないが、願望と現実は区別しなくてはならない。あなたに都合のよいことを言ってくる者は、あなたを食いものにしようとしているのだ。

世の中では、戦わなくてはいけないのだ。そしてそのためには武器が必要だ。ゆるふわな気持ちで出て行っても話にならない。何もできない子供のまま雇ってくれる新卒採用文化に慣れていると、このことを自覚しづらいかもしれない。けれど国際感覚のある人物を標榜するならちゃんと理解しなくてはいけない。あなたの武器は何で、あなたを雇うとどのようないいことがあるのか。それがはっきり言えるだろうか。もし言えるなら、きっと世界で通用するだろう。

分断された世界

アクティブに学生の活動をいろいろしていて、SNSを活用していると、世間は狭いなと思う瞬間がたびたび訪れる。友達の友達は友達、つながってる現象。大学を超えて、国を超えて、予測を超えて、びっくりするほどいろいろなところでつながっている。でもこれは、「そういう人たち」のネットワークが所詮とても限られているから起きる現象だ。別に本当に資本家のすごいところの話をしているわけではない。大学生程度だとそういう社会階層は案外重要ではないように見受けられる。そうじゃなくて、日本であっても、他の国であっても、わりと有名な大学に行っていて、勉強をけっこうまじめにしていて、短期でも長期でも留学とかしていて、そしてある種意識の高めの活動をしている。アルバイトはあまりしないで、ただ遊ぶだけのことにかまけていることもなく、もう少し社会的に体裁がいいことをして充実している。そういう人はたくさんいそうで、実は本当に少ない。まずそういう学生が所属する大学というだけでもたぶん全大学生の10%くらいに絞られるだろう。それで、その大学のうちでもさらに5%あるいはもっと少ない割合の学生しかそういうグループには属さないと思う。いまの日本の大学生が280万人くらいだから、これだけで14000人しかいないことになる。そりゃあ狭いわけだ! そしてこういう層は往々にして海外ともつながっていて、海外の学生事情も私の知る限りそう大きくは変わらない(「欧米では大学生は全員まじめに勉強している」とかは幻想だ)から、世界で見てもそう多くはない。

けっきょく、「世の中狭い!」と思うとき、それは自分がいかに閉じたコミュニティにいるかが示されているだけなのだ。一見すると開いているように見える。だって、違う大学どころか違う国の人たちともどんどんつながっているのだから。たしかに、よそと交流のない内輪な遊び系のサークル活動で数十人とだけかかわって、そしてバイト先でまた数十人知っていて、みたいな人よりも、開いている世界にいることは間違いない。でも、どっちにしろけっきょくは閉じているのだ。ただその閉じ方が、単一の組織とか単一の場所に規定されているか、それよりも抽象的な価値観や生き方、そして間接的には生い立ちの環境、あるいは嫌な言い方をすれば社会階層に規定されているかの違いだ。昨日はFacebookでフランスに留学している友人の写真にlikeをつけて、今日は三年前にシアトルで知り合ったシンガポール人が日本に来ているので会って。そんなこと当たり前だと思ってしまう。異国の地でもこうやってつながっていられるのは、もう当たり前のこと。

でも、そうやって世界をつながりが覆ったとき、隣人との関係には分断が横たわっている。同じ大学生でも、こういうことに縁のない人たちはどこまでも遠い存在になってくる。大阪とか京都にいるだけで、東京を中心に発達しているこういう人たちのコミュニティから若干距離ができるのに、他の地方大学だったら、それこそもっと縁がない。そういえば東北大の人とか、この界隈で知り合ったことがあるだろうか? そして、偏差値で大学を分けるのはとてもいやなことだが、でも偏差値が低い大学に行く人からの距離はどういうわけか本当に遠い。まれにはそれでも関わってくる人はいるが、でも本当に少ない。さらに大学に進学しない・できない人からの距離はもう絶望的に遠い。

かつて、地域活動を行うNPOに関わっていたことがある。地域ベースなのでいろいろな大学とか短大の学生、あるいは高校生がいたが、そこではMARCHで圧倒的に「高学歴」(あえて誤用)だった。いま私がいる界隈ではMARCHですら存在感は早慶と比べて極めて薄い。正直、大学の偏差値なんてどうでもいいと思っている。所詮入試の話であって、いまこうやって受験産業が作り出した用語を並べるだけでも寒気がするくらいだ。でも、自分の周りを見渡すと偏差値ですぱっと切れているのが目に付いてしまう。そして高卒で働き始める人がどういう仕事について、どういう将来があるのか、どういうことを考えて日々を生きていくのか、もう想像できなくなってしまった。あのころ、一緒に関わっていたはずなのに。そうやって、日常で道ですれ違う人とですら、どこまでも分断されている。「つながる」ことは、その裏返しでしかない。

人生はチェックリストではない:「何事も経験」というまやかしと、パスする勇気

人生はチェックリストではない。アイテムを獲得、achievement unlocked、ステージ攻略、そういうゲームとは違う。なのに、人生をただチェックを埋めていくことを目的に生きているように見える人がたくさんいるように思う。自分もたぶんその一人だ。一度はあのレストランに行ってみる、一度はバンジージャンプをやってみる、一度は富士山に登っておく、一度はポケモンGOを遊んでおく。だってみんな行ってるから、やってるから、経験しているから。自分だけ取り残されたくない。チェックをいくつ埋められるかを人と競う。そういう生き方をしている人がとても多い。

チェックリストとしてしか人生を歩んでいけないのは、弱さの現われだ。何事も経験してみないとわからない? それはまやかしだ。そうやって次から次へと新手の「経験」をこしらえて、あなたの人生を新しいだけの空虚なイベントで埋め尽くそうとする陰謀だ。繁華街ではしょっちゅう新しい飲食店が開店するし、新しいガジェットは毎週発売されるし、コンビニは新商品に溢れている。そういうものに飛びつくのは、単にビジネスのカモになるという以上に、自らの人生に対する鑑識眼を持たないことを自白している。しかり、限られた数しかない選択肢なら一通り試してみるのもありだ。しかり、若いうち、自分のものの見方を確立するまでの間は手当たり次第に試してみるのもありだ。けれど、いい年になってなお、あっちの新商品、こっちのイベントと西へ東へ踊らされているのは見るに耐えない。それは無限に追加されるチェックリストだ。追いかけていっても終わりがない。そして気づけばあなたの短い人生は終わってしまう!

パスをする勇気を持ちなさい。自分の人生に筋を通せるのは自分だけだ。筋を通すというのは、何をやるかと同じくらい、何をパスするかで決まる。パスをするというのは、可能性を捨てること。可能性の中身すら知らないままに捨てること。でもときには知りえない山札を予想して、あえてパスを決断しなくてはいけない。そうしないと、人生はがらくたでいっぱいになる。

自分の価値基準を持つこと、それが大人の定義だ。ひとつの考え方に固執するとか、視野を狭く持つとか、そういうことではない。ただ、これはいらない、これは切望する、そういう判断を自分の人生という固有の文脈で下すことができること。そのために自分だけの価値基準を持つこと。それが、ひとつの人生の主人公として、人生に責任を持って生きていく道。一回限りの命を与えられた者の使命だ。

私のいない世界

Facebookの友達かもに急に浮上してくる人がいる。プロフィールを見て、共通の友達を見て、「ああ、この人はあの場所であの人たちと出会ったのだな」とひとりごちる。そこにどんな言葉があっただろう。どんな想いがあっただろう。それは私には永遠に関係のないことで、私が出会うことはきっと一生ない。その人の写真も、名前もわかるけれど、その人の声を聞くことはなく、どんな顔で笑い、悲しむのか、なにひとつ知ることはできなくて、相手は私の存在を認識しない。この世界は広くて、私がいなくても人は動き、出会い、別れ、それぞれの道を生きていく。私の世界は、その中のほんの微小な部分に過ぎなくて、私が存在することはニュートリノと同じくらいしか世界に影響を与えない。世界の中心は私ではなくて、人類の圧倒的大多数から見れば、私は単に存在しない。放っておけば知ることのなかった現実が電子の世界で可視化されてしまう。あたりまえで、どうでもいいはずなのに、どうしてかたまらなく哀しい。

人生と飛び石渡り

人生は、飛び石を渡っていくようなものだと思う。ある石からある石へ、いくつかの居場所、人間関係、やること、ないしは価値観を持ちながら、順々に渡り歩いていく。

そこで大切になるのは、「自分の体重に気づき、自覚的に体重を乗せる」ということ。どこかに足を置き、そこに体重を乗せているタイミングがある。あるいはそこから体重を抜いて軸足を入れ替えているタイミングがある。誰でも自分の足がどこにあるあるかはわかっている。でも、どこにどのくらい荷重をかけているのかはついつい忘れてしまう。それを自覚的にコントロールすることが、とても大切だ。

どこに足を置くかはよく考えないといけない。間違ったところに置いたら落っこちてしまう。いきなり乗るよりは、そっと体重をかけてみてから重心移動をしたほうがいい。でも時には次の石が遠くて、一思いに飛び移らなくてはいけない。そういうときは自分の見立てを信じて飛ぶしかない。

そう、信じること。石を信じてあげて、体重を預けることが大事なのだ。

過去に留まって、先に進めなくなっている人がいる。どの石に進もうとも転ぶ未来が見えてしまって、足がすくんでしまっている。過ぎてしまったことを美化して、それと異なるものに文句をつけ、その間に足元の過去という石はずぶずぶと沈み始めていることに気がつかない。二つとして同じ石はないことを受け入れなくてはいけない。形が違う石に、自分の足を合わせないといけない。だって、人生では、どの石も乗った瞬間からゆっくりと沈み始めるから。だから次の石を見つけて、勇気を持って体重を乗せてやらなくてはいけない。

あるいは反対に、どこにも体重を乗せないで、石から石へと目まぐるしく渡り歩いている人がいる。きっと、そういう人には二つの種類がいるだろう。すべてに不満な人と、すべてに惹かれて目移りしてしまう人だ。

どの石にも納得できない気持ちはわかる。どの石にもリスクはある。すっかり好きになれる人間関係はないし、将来の不安のないキャリアもないし、めんどくさい面がない趣味もない。だからどこにも属さない者になるためにひょいひょいと飛び移り続けたくなる。けれど、それでもどこかにちゃんとコミットするべきだ。運命の人、運命の職業、運命の住処、そういうものは存在しない。間違った選択はある。飛び移るべきでない石はある。だから感覚を研ぎ澄ませて見極めなくてはいけない。だからといって100点満点の石を探す態度は、自分の人生への責任放棄だ。自分の人生を外部に依存させている。あなたの人生は、他者がすべてを規定するものではない。むしろあなたが他者といかに関わるかによって規定されるのだ。どの石があなたを幸せにするかじゃなくて、あなたがいかに自分を幸せにするかを考えなくてはいけない。だから、ちゃんと自分で決断して、自分の体重を乗せるのだ。

あるいは全部が魅力的な気持ちもわかる。だから全部を試してみたくて、それであっちへこっちへ渡り歩きたくなる。でも、それではなにもほんとうに経験することはできないのだ。ちゃんとそこに体重を預けてみて、自分の存在をしっかりその石に乗せることで、はじめて石と対話することができるのだ。こちらから信頼してやらないと、こちらから自分の時間と人生をコミットする意思を見せないと、他人も、コミュニティも、ほんとうの意味で受け入れてくれることはない。すぐに裏切りますよ、すぐによそに行きますよ、あなたは私にとって取るに足らない一人なんですよ、だって私には他にもたくさんの人がいるからね。そんな態度は舐めすぎだ。コミットメントなしに、リターンを求めてはいけない。

いま、あなたはどこに体重を乗せているか?

空気を読まないこと

日本人は協調性を重視し、周りの様子をうかがいながら目立たないように行動するとよく言われる。と、ここで比較文化の話をしたいわけではない。程度は同じではないかもしれないが「空気を読む」のは人間に共通する性質だろう。

集団から逸脱して空気を読まずに行動するのは危険だ。ほとんどの場合、それは「空気を読む能力に欠ける」サインとして解釈される。社会的に戦力外通告に等しいものだ。頭がおかしい人、その場にいる資格がない人。そういうレッテルは強力で、人間扱いされないということとあまり変わらない。強引に進化心理学的な説明をするのなら、群れの空気を読めず、秩序を乱す存在は群れ全体への脅威ゆえ追放されるということになるのかもしれない。周りがみな息を潜めて天敵をやり過ごそうとしている「空気」を察せず、不用意に音を立ててしまう個体は速やかに排除される必要がある。こういうシナリオが人間の心理的作用を形作る上で実効的に働いたかは定かではないが、ひとつの筋書きとしてはもっともらしい。

しかし、逸脱はまったく逆方向にも作用しうる。「空気を読めない」ではなく「空気を読まない、読む必要がない」というメッセージは強さの証になる。カリスマ性の重要な条件の一つは他人がためらうことを真っ先にできることだ。それによって浮いてしまうことを恐れる必要がないほど自信に満ちたリーダーに人は魅了される。

では、この明暗の分かれ道はどこにあるのだろう?

たぶん一番大きいのは、「強さ」のサインを出しているかという身も蓋もない基準だろう。単純に体格が優れ、筋肉質であること、長身であること、容姿がよいこと。必ずしも純粋な格闘能力でなくても、生存競争と性選択の勝者であることを示すサイン。そういうものを持っていれば、逸脱した行動は強さだと解釈される。もちろん、逆もしかり。だから空気を読まないのはまさに「※ただしイケメンに限る」という専売特許なのだ。そこまでいかなくても、せめて「まともそう」な雰囲気を出すことが必要だ。行動や服装のある一点では空気を読んでいなかったとしても、ほかの点では風貌や振る舞いがまともっぽいことが必要だ。変にきょどっていたり、動きに落ち着きがなかったりと強者らしからぬ面を見せてしまったら、あとは空気を読まなければ読まないほどおかしなやつに転落していくしかない。

ただ、この「強さのサイン」はもう少し込み入っている。文脈によっては変わってくるからだ。たとえばスポーツでも音楽でもなんでもよいが、そういうことをする集団の中では、技巧がきわめて大きな強さの指標になるだろう。世間一般の文脈ではただのおかしな人になるところ、その集団では技術ゆえに尊敬され、逸脱した振る舞いも許容されるどころか、そういう振る舞いをすることによって技術的に卓越している事実を見せつけることになる。これは微妙なバランスだ。見せつけることによってしか確認されない卓越性はたいしたことないとも言えるかもしれないが、しかしそんなに飛び抜けて秀でることは通常ないわけで、少々の差でもアピールすることで集団の力学を操らなければならないのだろう1

閑話休題、もうひとつの明暗の分かれ道は、その行動が「理解できる」ものであることだろう。まったく意味不明なことをしているのではなくて、みんなやりたかったけどできないこと、あるいはその人の一貫した趣味嗜好を貫き通すといった、やりたい動機が理解できることであれば空気を読まなくても大丈夫だ。あえて恥をかきにいける。でもそれは、そうしたらかえってかっこいいとわかっているから。わかっててピエロをしにいく、あるいは単に楽しいことをしにいく。そういうのはけっきょく、リターンのためにリスクを取るということ。だから、リターンが理解できる場合はしっくりくる。たとえば、いつだか建物の廊下でローラーボードに乗っているやつがいた。普通の感覚だったら迷惑だし、そんなことやらないだろう。でも、楽しそうなことは間違いない。行動を縛っているもろもろのしがらみを取り去ってみれば、真っ直ぐで平らな廊下があって、ローラーボードを持っていたら、そこで遊ぶのが一番自然な行動かもしれないな、ということにはじめて気付かされた。それでもやっぱり感心はしない行動だが、そうやって自由に振る舞って、ほんとうはだれだってやりたいはずのことをしているのは端的にうらやましい。ローラーボードはしないにしても、見習うべきところは多いと思う。

たぶん日本の社会は、こうやって逸脱した行動を取ることへの寛容度合いが低い社会だ。それは日本だけではないかもしれない。それでも、もう少し規範性がゆるい社会も少なからずあるだろう。だから空気を読まないと疎まれていろいろな不利益を被ることもあるかもしれない。ただ、逆にそれはこういう行動を取るライバルが少ないというチャンスでもあるように思う。それこそ「日本的な」まめに機嫌を取るような行動とうまいこと組み合わせてリスクを軽減すれば、リターンは大きいはずだ。というのは、ほかにそうやって逸脱する競争相手がいないから、逸脱することによる利益をぜんぶ持っていけるからだ。ふつう人がしない交渉ごと、頼みごとをしてみる、ちょっと無茶かもしれない要求をしてみる、わからないときに積極的に質問してみる。だめなら引き下がればいい。無理に押し通す必要はない。ただ、不満があるときにだまってがまんしないで一歩踏み込んでみることは大事だと思う。ときにうまくいかないことがあったとしても、きっと得るもののほうが多い。


  1. けっきょくのところ、組織におけるモラハラはこういう集団の力学、リーダーが地位を脅かされないためには力を誇示し続ける必要があるという構造によって生じる部分が大きいのではないかと思う。個人が最初からモラハラ気質を持っている場合ももちろんあるだろうが、組織から離れれば家庭では優しい親なのに、といった事例はまさに組織の構造がリーダーをしてモラハラをさせていることの証拠なのではないだろうか。もちろん、モラハラを正当化したいわけではない。

二世帯住宅はやめておけ

私の実家は二世帯住宅だった。その時の経験から言うと、二世帯住宅はぜったいにやめるべきだ。

このことは近年すでに言われていることのようだ。二世帯住宅は過去の考え方で、ものの本によると「スープの冷めない距離」なるものがよいらしい。すなわち、徒歩数分くらいの距離で別に住むべきだということだ。

結婚したら、もう「親に対しての子」という立場は手放さなくてはいけないのだ。少なくとも優先順位は下げなくてはいけない。あなたはもう息子や娘であるより、妻や夫であり、かつ子どもがいるなら父や母であるのだ。この優先順位は絶対に逆転させてはいけない。たとえ自分の親にたくさん介護の手がかかるようになっても、そのことを肝に命じなければならない。

そして、配偶者に自分の親の世話をさせるなんてあまりにばかげている。他人同士の関係ではないか。肉親であっても介護なんてやっていられないのに、どうしてただの他人の世話ができよう? ナンセンスの一言に尽きる。

介護はつらい。なぜつらいかというと、出口が見えないから。出口は死しかないから。早く死んでほしい、そう願う気持ちは決して口に出せない。介護は家族の関係を壊す。なぜならぜったいに家族の間で温度差ができるから。これを経験したとき、私は孫の立場だったから気楽ではあった。でも、これをより近い立場でやりたいとは思わない。どの位置にいても、つらいだけだ。

二世帯住宅だと、24時間365日介護から解放されない。呼び出しブザーなんかつけてしまったものだから、いつ何時それが鳴って呼び出されるかわからない。1回目、2回目、3回目、そのころはまだ笑っていられる。でも、500回目でも、まだ平気だろうか? そう考えると数分で行けてしまうスープの冷めない距離とやらですら近すぎる気がしてくる。1時間くらい離れていたほうがいいのではないか。

そもそも、なぜ親の介護なんてしなくてはいけないのだろうか。いや、したくなるものなのか? 今の時点ではそんなこと思わないが、実際親が介護が必要になったらしようと思うのだろうか。あるいは、せざるを得ないのか。しかし介護を外注するくらいの金はあったはずなのに、どうしてそっちを選ばなかったのだろうか。こんなことを思う私は冷血な人間なのだろうか。

家庭の問題について語り出すときりがない。別に私は虐待されたとかそういうのではないが、でもやはり自分の家庭や周りの人たちを見ていて思うことはいろいろある。その中でも最大のものは、やはり親離れ子離れができていないケースが多すぎるという問題だと思う。特に母親とべったりになってしまう問題が多いのは、女性が出産育児とともに職場を離れざるを得ないというジェンダーロールの問題と地続きだろう。そうすると人間関係が狭まり、かつ固定されてしまう。職場だったらうまくいかなかったら転職すればいいが、専業主婦のママ友みたいなつながりは単に狭いだけでなく、いったんうまくいかないことがあったときに切り替える手段がないから、そうするとどこまでも孤立してしまう。昔からの友人だってずいぶん疎遠になっているだろうし、相手も家族を持ったりして忙しいだろう。結果として、母と子がどこまでも融合してしまう。

祖父母が亡くなったとき、私は別に悲しく感じなかったことが思い起こされる。なぜだろう。全員長生きしたからだろうか。それとも、介護の手伝いにもううんざりしていたからだろうか。いつもは冷静に見えた両親が、ずいぶんと周りが見えなくなっていた。父方のほうが介護を要したときは、私の父親がそっちにすっかり入れ込んでいるのを母親と私は醒めた目で見ていた。でも、そのあとに母方のほうが同様になったときは、今度は私は父と一緒に冷静さを失った母を見ていた。やっぱり、家族は他人のはじまりだ。家族という単位を、私はあまり信用しない。情なんて、もろいものだ。

だから、家族という単位で親世代を支えようと考えるのは間違っている。二世帯住宅なんて、やめておけ。