人生と飛び石渡り

人生は、飛び石を渡っていくようなものだと思う。ある石からある石へ、いくつかの居場所、人間関係、やること、ないしは価値観を持ちながら、順々に渡り歩いていく。

そこで大切になるのは、「自分の体重に気づき、自覚的に体重を乗せる」ということ。どこかに足を置き、そこに体重を乗せているタイミングがある。あるいはそこから体重を抜いて軸足を入れ替えているタイミングがある。誰でも自分の足がどこにあるあるかはわかっている。でも、どこにどのくらい荷重をかけているのかはついつい忘れてしまう。それを自覚的にコントロールすることが、とても大切だ。

どこに足を置くかはよく考えないといけない。間違ったところに置いたら落っこちてしまう。いきなり乗るよりは、そっと体重をかけてみてから重心移動をしたほうがいい。でも時には次の石が遠くて、一思いに飛び移らなくてはいけない。そういうときは自分の見立てを信じて飛ぶしかない。

そう、信じること。石を信じてあげて、体重を預けることが大事なのだ。

過去に留まって、先に進めなくなっている人がいる。どの石に進もうとも転ぶ未来が見えてしまって、足がすくんでしまっている。過ぎてしまったことを美化して、それと異なるものに文句をつけ、その間に足元の過去という石はずぶずぶと沈み始めていることに気がつかない。二つとして同じ石はないことを受け入れなくてはいけない。形が違う石に、自分の足を合わせないといけない。だって、人生では、どの石も乗った瞬間からゆっくりと沈み始めるから。だから次の石を見つけて、勇気を持って体重を乗せてやらなくてはいけない。

あるいは反対に、どこにも体重を乗せないで、石から石へと目まぐるしく渡り歩いている人がいる。きっと、そういう人には二つの種類がいるだろう。すべてに不満な人と、すべてに惹かれて目移りしてしまう人だ。

どの石にも納得できない気持ちはわかる。どの石にもリスクはある。すっかり好きになれる人間関係はないし、将来の不安のないキャリアもないし、めんどくさい面がない趣味もない。だからどこにも属さない者になるためにひょいひょいと飛び移り続けたくなる。けれど、それでもどこかにちゃんとコミットするべきだ。運命の人、運命の職業、運命の住処、そういうものは存在しない。間違った選択はある。飛び移るべきでない石はある。だから感覚を研ぎ澄ませて見極めなくてはいけない。だからといって100点満点の石を探す態度は、自分の人生への責任放棄だ。自分の人生を外部に依存させている。あなたの人生は、他者がすべてを規定するものではない。むしろあなたが他者といかに関わるかによって規定されるのだ。どの石があなたを幸せにするかじゃなくて、あなたがいかに自分を幸せにするかを考えなくてはいけない。だから、ちゃんと自分で決断して、自分の体重を乗せるのだ。

あるいは全部が魅力的な気持ちもわかる。だから全部を試してみたくて、それであっちへこっちへ渡り歩きたくなる。でも、それではなにもほんとうに経験することはできないのだ。ちゃんとそこに体重を預けてみて、自分の存在をしっかりその石に乗せることで、はじめて石と対話することができるのだ。こちらから信頼してやらないと、こちらから自分の時間と人生をコミットする意思を見せないと、他人も、コミュニティも、ほんとうの意味で受け入れてくれることはない。すぐに裏切りますよ、すぐによそに行きますよ、あなたは私にとって取るに足らない一人なんですよ、だって私には他にもたくさんの人がいるからね。そんな態度は舐めすぎだ。コミットメントなしに、リターンを求めてはいけない。

いま、あなたはどこに体重を乗せているか?

空気を読まないこと

日本人は協調性を重視し、周りの様子をうかがいながら目立たないように行動するとよく言われる。と、ここで比較文化の話をしたいわけではない。程度は同じではないかもしれないが「空気を読む」のは人間に共通する性質だろう。

集団から逸脱して空気を読まずに行動するのは危険だ。ほとんどの場合、それは「空気を読む能力に欠ける」サインとして解釈される。社会的に戦力外通告に等しいものだ。頭がおかしい人、その場にいる資格がない人。そういうレッテルは強力で、人間扱いされないということとあまり変わらない。強引に進化心理学的な説明をするのなら、群れの空気を読めず、秩序を乱す存在は群れ全体への脅威ゆえ追放されるということになるのかもしれない。周りがみな息を潜めて天敵をやり過ごそうとしている「空気」を察せず、不用意に音を立ててしまう個体は速やかに排除される必要がある。こういうシナリオが人間の心理的作用を形作る上で実効的に働いたかは定かではないが、ひとつの筋書きとしてはもっともらしい。

しかし、逸脱はまったく逆方向にも作用しうる。「空気を読めない」ではなく「空気を読まない、読む必要がない」というメッセージは強さの証になる。カリスマ性の重要な条件の一つは他人がためらうことを真っ先にできることだ。それによって浮いてしまうことを恐れる必要がないほど自信に満ちたリーダーに人は魅了される。

では、この明暗の分かれ道はどこにあるのだろう?

たぶん一番大きいのは、「強さ」のサインを出しているかという身も蓋もない基準だろう。単純に体格が優れ、筋肉質であること、長身であること、容姿がよいこと。必ずしも純粋な格闘能力でなくても、生存競争と性選択の勝者であることを示すサイン。そういうものを持っていれば、逸脱した行動は強さだと解釈される。もちろん、逆もしかり。だから空気を読まないのはまさに「※ただしイケメンに限る」という専売特許なのだ。そこまでいかなくても、せめて「まともそう」な雰囲気を出すことが必要だ。行動や服装のある一点では空気を読んでいなかったとしても、ほかの点では風貌や振る舞いがまともっぽいことが必要だ。変にきょどっていたり、動きに落ち着きがなかったりと強者らしからぬ面を見せてしまったら、あとは空気を読まなければ読まないほどおかしなやつに転落していくしかない。

ただ、この「強さのサイン」はもう少し込み入っている。文脈によっては変わってくるからだ。たとえばスポーツでも音楽でもなんでもよいが、そういうことをする集団の中では、技巧がきわめて大きな強さの指標になるだろう。世間一般の文脈ではただのおかしな人になるところ、その集団では技術ゆえに尊敬され、逸脱した振る舞いも許容されるどころか、そういう振る舞いをすることによって技術的に卓越している事実を見せつけることになる。これは微妙なバランスだ。見せつけることによってしか確認されない卓越性はたいしたことないとも言えるかもしれないが、しかしそんなに飛び抜けて秀でることは通常ないわけで、少々の差でもアピールすることで集団の力学を操らなければならないのだろう1

閑話休題、もうひとつの明暗の分かれ道は、その行動が「理解できる」ものであることだろう。まったく意味不明なことをしているのではなくて、みんなやりたかったけどできないこと、あるいはその人の一貫した趣味嗜好を貫き通すといった、やりたい動機が理解できることであれば空気を読まなくても大丈夫だ。あえて恥をかきにいける。でもそれは、そうしたらかえってかっこいいとわかっているから。わかっててピエロをしにいく、あるいは単に楽しいことをしにいく。そういうのはけっきょく、リターンのためにリスクを取るということ。だから、リターンが理解できる場合はしっくりくる。たとえば、いつだか建物の廊下でローラーボードに乗っているやつがいた。普通の感覚だったら迷惑だし、そんなことやらないだろう。でも、楽しそうなことは間違いない。行動を縛っているもろもろのしがらみを取り去ってみれば、真っ直ぐで平らな廊下があって、ローラーボードを持っていたら、そこで遊ぶのが一番自然な行動かもしれないな、ということにはじめて気付かされた。それでもやっぱり感心はしない行動だが、そうやって自由に振る舞って、ほんとうはだれだってやりたいはずのことをしているのは端的にうらやましい。ローラーボードはしないにしても、見習うべきところは多いと思う。

たぶん日本の社会は、こうやって逸脱した行動を取ることへの寛容度合いが低い社会だ。それは日本だけではないかもしれない。それでも、もう少し規範性がゆるい社会も少なからずあるだろう。だから空気を読まないと疎まれていろいろな不利益を被ることもあるかもしれない。ただ、逆にそれはこういう行動を取るライバルが少ないというチャンスでもあるように思う。それこそ「日本的な」まめに機嫌を取るような行動とうまいこと組み合わせてリスクを軽減すれば、リターンは大きいはずだ。というのは、ほかにそうやって逸脱する競争相手がいないから、逸脱することによる利益をぜんぶ持っていけるからだ。ふつう人がしない交渉ごと、頼みごとをしてみる、ちょっと無茶かもしれない要求をしてみる、わからないときに積極的に質問してみる。だめなら引き下がればいい。無理に押し通す必要はない。ただ、不満があるときにだまってがまんしないで一歩踏み込んでみることは大事だと思う。ときにうまくいかないことがあったとしても、きっと得るもののほうが多い。


  1. けっきょくのところ、組織におけるモラハラはこういう集団の力学、リーダーが地位を脅かされないためには力を誇示し続ける必要があるという構造によって生じる部分が大きいのではないかと思う。個人が最初からモラハラ気質を持っている場合ももちろんあるだろうが、組織から離れれば家庭では優しい親なのに、といった事例はまさに組織の構造がリーダーをしてモラハラをさせていることの証拠なのではないだろうか。もちろん、モラハラを正当化したいわけではない。

二世帯住宅はやめておけ

私の実家は二世帯住宅だった。その時の経験から言うと、二世帯住宅はぜったいにやめるべきだ。

このことは近年すでに言われていることのようだ。二世帯住宅は過去の考え方で、ものの本によると「スープの冷めない距離」なるものがよいらしい。すなわち、徒歩数分くらいの距離で別に住むべきだということだ。

結婚したら、もう「親に対しての子」という立場は手放さなくてはいけないのだ。少なくとも優先順位は下げなくてはいけない。あなたはもう息子や娘であるより、妻や夫であり、かつ子どもがいるなら父や母であるのだ。この優先順位は絶対に逆転させてはいけない。たとえ自分の親にたくさん介護の手がかかるようになっても、そのことを肝に命じなければならない。

そして、配偶者に自分の親の世話をさせるなんてあまりにばかげている。他人同士の関係ではないか。肉親であっても介護なんてやっていられないのに、どうしてただの他人の世話ができよう? ナンセンスの一言に尽きる。

介護はつらい。なぜつらいかというと、出口が見えないから。出口は死しかないから。早く死んでほしい、そう願う気持ちは決して口に出せない。介護は家族の関係を壊す。なぜならぜったいに家族の間で温度差ができるから。これを経験したとき、私は孫の立場だったから気楽ではあった。でも、これをより近い立場でやりたいとは思わない。どの位置にいても、つらいだけだ。

二世帯住宅だと、24時間365日介護から解放されない。呼び出しブザーなんかつけてしまったものだから、いつ何時それが鳴って呼び出されるかわからない。1回目、2回目、3回目、そのころはまだ笑っていられる。でも、500回目でも、まだ平気だろうか? そう考えると数分で行けてしまうスープの冷めない距離とやらですら近すぎる気がしてくる。1時間くらい離れていたほうがいいのではないか。

そもそも、なぜ親の介護なんてしなくてはいけないのだろうか。いや、したくなるものなのか? 今の時点ではそんなこと思わないが、実際親が介護が必要になったらしようと思うのだろうか。あるいは、せざるを得ないのか。しかし介護を外注するくらいの金はあったはずなのに、どうしてそっちを選ばなかったのだろうか。こんなことを思う私は冷血な人間なのだろうか。

家庭の問題について語り出すときりがない。別に私は虐待されたとかそういうのではないが、でもやはり自分の家庭や周りの人たちを見ていて思うことはいろいろある。その中でも最大のものは、やはり親離れ子離れができていないケースが多すぎるという問題だと思う。特に母親とべったりになってしまう問題が多いのは、女性が出産育児とともに職場を離れざるを得ないというジェンダーロールの問題と地続きだろう。そうすると人間関係が狭まり、かつ固定されてしまう。職場だったらうまくいかなかったら転職すればいいが、専業主婦のママ友みたいなつながりは単に狭いだけでなく、いったんうまくいかないことがあったときに切り替える手段がないから、そうするとどこまでも孤立してしまう。昔からの友人だってずいぶん疎遠になっているだろうし、相手も家族を持ったりして忙しいだろう。結果として、母と子がどこまでも融合してしまう。

祖父母が亡くなったとき、私は別に悲しく感じなかったことが思い起こされる。なぜだろう。全員長生きしたからだろうか。それとも、介護の手伝いにもううんざりしていたからだろうか。いつもは冷静に見えた両親が、ずいぶんと周りが見えなくなっていた。父方のほうが介護を要したときは、私の父親がそっちにすっかり入れ込んでいるのを母親と私は醒めた目で見ていた。でも、そのあとに母方のほうが同様になったときは、今度は私は父と一緒に冷静さを失った母を見ていた。やっぱり、家族は他人のはじまりだ。家族という単位を、私はあまり信用しない。情なんて、もろいものだ。

だから、家族という単位で親世代を支えようと考えるのは間違っている。二世帯住宅なんて、やめておけ。

書くことは病んでいるしるし

ブログを始めて数ヶ月が過ぎた。これまでもSNSなどにまとまった文章を投稿することはあったが、こんなにいろいろな話題について思うままに書くことができる気楽さはリアルの人間関係から切り離したブログの媒体ゆえのものだ。こんなに楽しいとは思わなかった。

ところが、最近奇妙に思うことがある。知人にブログに使うネタを部分的に話してみたり、あるいは原稿を見せたり1しても、たいして反応がないのだ。そして、こんなにたくさん文章を書いていると言うとだいたい驚かれる。なのに同時に、ブログ界隈ではもっとたくさん書く人達がいくらでもいる。考えも豊かだし、文章が魅力にあふれていてすばらしいなと思う。それはなにも有名ブロガーに限った話ではない。読者数が一桁二桁くらいのブログでも、宝石のように輝く文章をたくさん見ている。はたしてこのギャップは何なのだろうか。どうしてリアルで遭遇する世の中の人は案外文章を書かないのだろうか。

そう思いながら今日もいろいろな人のブログを見ていると、ふと気がついた。私が気に入っているブログはほとんどすべて、何らかの意味で「病んで」いるか、そうでなくても社会の「ふつう」なレールから逸脱した人達によって綴られていることに。そういうブログにだけ、不思議な魅力を感じるのだ。そういうブログだけが、自己の内面に目を向け、世の中を自らの経験に基づいて考え、その人なりの言葉によって生み出された文章でできているのだ。そういうブログだけが、本当に書きたい衝動に駆られて書かれているのだ2

そうなのだ。わかってしまった。ふつうの人は、書かないのだ。己の生い立ちや内心を何千何万もの文字に刻んで吐露するなんてことはしないのだ。ふつうの人は、書くとしても内容の薄っぺらいものだけだ。ふつうの人は、どこかで誰かが書いていたことをストックフォトとアフィリエイトと大量の改行とともに焼き直して、アクセスを稼いで広告収入を得ることくらいにしか興味がないのだ。対してどうだろう、内省的なブログは文字がびっしりと詰まっていて、引用もリンクもほとんどない。そう、こっちが私のいる世界。

そもそも、世界との不協和があってこそ書くことができるのだ。世界に溶け込めているなら、書く必要がない。書くことがない。

文章を書く人は、自己の内面世界と外部の世界の間に差異を抱えているのだ。例えてみるなら細胞膜によって隔てられていて、その内外で濃度が均一でないのだ。だから、内部から発信する必要がある。もちろん発信したって世の中は別に変わってくれるわけじゃないから、問題が解決するわけではない。ずっと膜にかかる圧力に耐え続けなければならない人生。

そしてまさにその差異によって、人々は社会から異常者とみなされる。差異ある者は狂気を持つ者であると定義され、精神医学によって作り出された病名3がつけられる。圧力は、このようにして作用するのだ。

世の中でうまくいっている人は、内と外でのずれが小さい。だから、溶媒である社会に溶け込むのに苦労がない。そのとき個人は切れ目のない存在として社会と一体をなし、社会は個人に内在する。文章を書くまでもなく、テレパシーを使うでもなく、何もしなくてもおおむね均質であるから、はなから通じ合っているのと同じことだ。均質であるから、自己の存在を規定する膜を意識する必要がない。膜に圧力がかからないから。そこに言葉はいらない。いや、言葉を使いはするが、しかし言葉が綴る意味を伝達することを目的としてはいない。差異を説明することが目的の言葉ではなく、同質性を確認することが目的の言葉。それがノリとか言われるものだろう。

それはどんなに生きやすいことだろう。そもそも、自己と他者の意味合いが変わってくるのかもしれない。自己の内外を厳格に峻別する必要がないから。人と人が部分的にせよ溶け合ったような自我を形成できる。だから彼らはあんなにも共感性を求めるのだろう。だから彼らは、卒業などで仲間のもとを離れるときにあんなに涙を流し、手厚く送り出し、その後もつながっていようとするのだろう。私は共同体に属している間はけっこうその場所を大事に思えるが、離れるとすぐに冷めるタイプだ。そのこともこれで説明がつく気がする。膜でしっかり分けて、自分を形成するコンポーネントは確保しているから、離れてもやっていけてしまうのだ。ある意味ではいいことかもしれない。どこにいってもやっていけるから。

文章を書く人間の性質は、他の創作物にも共通するのだろうか。音楽や絵画、あるいは彫刻。私の経験上、写真はわりと方向性が違うように思う。(一般的な写実的な)写真は被写体を表現することが第一であって、そこに撮影者の技量が入り込みはするが、それでも撮影者はどちらかというと黒子として振る舞う。文章は(少なくとも随筆については)写真とは反対に、文字によって描き出す客体より、描く著者そのものに焦点が当たる傾向が強い。絵はもう少し文章に近いかもしれない。


  1. このブログそのものがバレることはないように注意しているつもりだが、もし発見していたらぜひ直接連絡してほしい。怒らないから。

  2. ショーペンハウエル『著作と文体』の二つあるいは三つの著者のタイプに関するくだりを思い起こさせる。

  3. ここでは精神医学の学術的知見を否定的に扱うつもりはないが、しかしその社会的意義として一面では異常者をわかりやすくラベリングする方向に用いられたことが現在、あるいは少なくともかつてあったことは間違いないだろう。

潮時を見極めること、逃げないこと

「潮時」という言葉1が好きだ。それは自然とやってきて、また去っていくもの。

人生において、日々の生活において、潮時を意識しようと心がけています。みんなと一緒にいても、どこかのタイミングでさよならしなくてはいけない。それは何年かを過ごした場所やコミュニティに別れを告げるときもそうだし、飲み会みたいなものに参加したときどのタイミングで抜けるかを考えるときも同じ。ずるずるといつまでもとどまるのはよくないことが多いから、たとえみんなが動かなくても、自分だけ先に去るべきときがある。たぶん、それはけっこう頻繁にある。なぜなら人はそういう決断がなかなかできないからだ。だらだら二次会三次会と参加して、そのまま終電を逃してカラオケで朝まで、みたいのは典型的な無駄な時間の使い方だ。潮時はもっと前にあったはずだ。

答えなくてはいけないのは、「この場にもう一時間、一ヶ月、一年残ることによる効用は、いかほどのものだろうか? それによって自分がどのくらい成長できるだろうか?」という問い。こういうとき、居心地がいいとついつい長居してしまう。ちやほやされる場所、仲間がいる場所。ぬくい場所。そういう場所を、それでもあえて捨てなくてはいけない。未知の荒野に踏み出さなければならない。振り返っている場合ではない。

でも逆に、あまりころころ場所を変えるばかりでもいけない。それは逃げだからだ。これはとある競技をしていて思ったことだ。何かに取り組むとき、特に何らかのスキルを身につけようとしているとき、中途半端にかじって、その先が大切なところなのにフォロースルーをしないで満足してしまう人が多すぎる。他の人がしばしば一年や二年やったら満足することでも、もっと長くやったほうがいいこともある。その先の地平にはじめて見えてくるものがある。たしかに将来そのスキルそのものは使わないかもしれない。でも、真剣に取り組んで何かを身に付ける経験はきっと無駄にならない。

やめてしまうのが早い人を見ると残念な気持ちになる。「そんなにガチ勢じゃないから」とか「ほかにやりたいことがあって、それと両立したい」とか言って、けっきょくフェードアウトしていく。まあ、それはその人の判断なのでとやかく言うことはない。その人の人生なりに優先順位があるのでしょう。実際、別のことに取り組んで結果を残している人は純粋に尊敬する。でも見ていて思うのは、そういう言葉はしばしば逃げだということだ。本気で取り組んだら、自分の限界を見てしまうから。本気で取り組んだら、結果に言い訳できないから。だから本気を出さないことにして自尊心が傷つかないように守っている。そうやって痛みのない世界、ぬるくてやさしい世界に逃げている。それでいいのか?

けっきょく、大切なのは「人脈」とかではない。表面的に仲良いふりをしていても、そんなものはなんの役に立つか? 無駄にいろんなイベント、コミュニティに顔を出して、けっきょく自分の売りにできる強みがなかったら、よくて便利屋さんにしかなれない。若いうちはそれでもちやほやしてもらえるけれど、10年後にはどうなるか?

だから、潮が満ちるのを待たなくてはいけない。本当に満ちるまで、食い下がらなければいけない。プライドを砕かれても、傷だらけになっても。結果を出せず、スポットライトを浴びることができなくても。先輩にはかなわず、同期には差をつけられ、後輩には追いぬかれ、もう居場所がないように感じながら、それでも血まみれになりながら食らいつき続けるしつこさを持たなくてはならない。戦い続けないと、強くなれないのだから。

潮時を見極める目を持ちなさい。いつまでもずるずると快適なところにとどまらない。そしてつらいからといって早く逃げ出さない。居心地のよさに惑わされず、弱さにも負けずに。


  1. 厳密なことをいうと、「潮時」というのはなにかにちょうどいいタイミングのことであって、「そろそろ潮時だね」というフレーズで意味するような「やめどき」の意味では本来はないらしいが、けっきょく「やめるのにちょうどいいタイミング」という意味で使うのであれば両者の意味が重なるところだから問題ないと考える。この文章ではそういう意味で使っている。それに、誤用警察の言うことはそこまで気にするつもりはない。

バカって言うやつがバカ

他人がバカだと思ったら、あなたがバカなのです。他人の置かれた状況、持っている情報、その他もろもろの条件が異なるのに、なぜあなたと同じ思考で同じ結論に至り、同じ行動を取らないことをバカだと思うのか。その想像力の欠如がバカなのです。

他人がつまらないと思ったら、あなたもつまらないのです。その人はつまらないかもしれないけど、あなたもつまらない。相手が自分の食いつける話題を提示してくれないのはわかったけど、あなただって相手が食いつける話題を提示できてない。それって同類じゃないですかね。お似合いですよ。あるいは、相手のほうが本当につまらないかもしれない。でもまた別の人、もっとおもしろい人から見たら、あなたはやっぱりつまらない人に過ぎないのです。話題の引き出しが少ないし、気の利いたことも言えない人。他人をつまらないといって裁いたら、次はあなたが裁かれる番。

他人がめんどくさいと思ったら、あなたも同じくらいめんどくさい。生きていたら、だれしもめんどくさくなるときはあるのだから、受け入れなさい。なんたって死者ですらときどきめんどくさいくらいなのです。それなのにいちいちぶつぶつ文句を言うあなたがめんどくさいことに気づきなさい。文句を言わなくても不機嫌になるなら、それでも十分にめんどくさいことに気づきなさい。

他人が差別的だと思ったら、あなたもきっと同じくらい差別的だということに気づきなさい。いま話題にしている特定の事柄では相手のほうが差別的かもしれないけど、あなたもきっとほかの事柄では差別的なのですよ。自分が安全圏にいると思うのはやめなさい。差別を叩いているつもりで、あなたこそ思いっきり差別してるかもしれないし、そうだとしてもあなたはそれに気づけない。聞く耳を持ちなさい。自分が絶対的正義を持っていると思うのはやめなさい。お互いに、学んでいこうじゃないですか。

他人が過ちを犯していると思ったら、あなたも過ちからは逃れられないことに気づきなさい。しょせん、あなたもわたしも人間なのです。思い上がってはいけません。

他人の行いに問題があると思ったら、それがあなたに何の関係があるかを考えなさい。そのせいであなたがよい人間であれなくなるのですか? そうだとしても、それはあなたの問題ではないのですか? あなたの心持ちが、あなたを害しているだけです。他人があなたを害しているわけではありません。あなたに関係のないことにとらわれて、心を乱して、いったい何がしたいのでしょう。他人のことは放っておきなさい。もしそれでも関わりたいなら、相手をよくするために関わりなさい。腹を立てることは、その役には立ちません。

それでもだれかが自分を害していると思ったら、それに怒って何の役に立つのかを考えなさい。そうすれば問題が解決するのですか? 怨嗟を撒き散らして、関係ない人まで巻き込んで、どうしたいのですか? あなたの感情はあなたの持ち物です。あなたはあなたの感情の持ち物ではありません。淡々と対応しなさい。離れる必要があるなら離れなさい。でも、あなたの大切な感情まで相手に売り渡す必要はないのです。

だれかが自分を益してくれたら、素直によろこびましょう。勘ぐるのは後でいいのです。相手にどんな意図があろうと、あなたが与えられたことに違いはありません。生きていればプラスもマイナスもあるのです。なのになんで、後でマイナスがあるかもしれないからといってプラスの出来事に対してまで心をマイナスにするのでしょう。そうするなら、ちゃんとマイナスの出来事に対しては心をプラスにしてますか? マイナスに振り切れたらあとは上がるしかないから、喜びの極致にありますか? そんなことないですよね? そういうのをダブルスタンダードって言うのですよ。

だれかが自分を助けてくれたら、素直に助けられなさい。与えられることを拒んではいけません。それはあなたが半人前だという意味ではなく、あなたを一人前以上にしてくれるための助けなのです。あなたは感謝して、もっと先に進めばいいのです。

だれかに恩恵を受けたら、そのことで罪悪感を感じる必要はありません。その人に返す必要なんてないからです。また別の人に恩を送っていけばいいのです。そうすればあなたの元に借りは残りません。そうやって世界は回っていくのです。恩という貨幣がたくさん流通するほど、みんな豊かになるのです。経済学の基本でしょう?

だれかががんばっているなと思ったら、あなたも同じくらいがんばっているのです。その人は見えるところでも、見えないところでもがんばっているけど、あなただって同じようにがんばっている。その人をたたえて、自分もたたえなさい。

だれかが尊敬できる人だと思ったら、自分も同じくらい尊敬できる人であると自信を持ちなさい。他人を尊敬できる心は、謙虚に学ぶことができる。他人を尊敬できる心は、ねたまない。他人を尊敬できる心は美しい。そんなあなたは尊敬に値する。

だれかを愛せるなら、あなたは愛されることもできる。信じなさい、あなたは愛される資格がある。だれも、そうじゃないとあなたに告げることはできない。あなたは、愛されない関係に甘んじる必要はない。あなたは、ここにいていい。

大学院生の独り言

学部生だったころ、きみと一緒に学食でカレーを食べた。カレー300円にするか、カツカレー400円にするか、よく迷ったものだ。ついでにサラダをつけるかどうかも、また迷ったものだった。そしてテーブルを囲んで、どうでもいい話をよくしたものだった。ときには将来についても話した。あのころは、いま思い返すと笑ってしまうほど純粋で、世間知らずだった。いや、私は今でも世間知らずなのだろうけど。

あれから何年も過ぎた。私は大学院に進学したけれど、きみは就職した。私はまだ成果を出せずにもがいているけど、きみはもう社会人になって何年か経って、少し大変な仕事を任されたり、転勤したり、後輩を指導していたりするようだね。どんな苦労があるのかは知らない。でもきみがSNSにアップロードする写真は、いつの間にか夜景が見えるレストランでのコース料理になった。誰と行ったのだろう。いや、そんなことはどうでもいい。いくらしたのだろう。そっちのほうが気になる。ぜったいに聞かないけど。聞いたって、どうせ自分に払える金額でないことくらい、わかっているから。

私はまだ同じキャンパスにいて、同じ食堂で、あのころと同じ席に座って、今日も300円のカレーを食べる。いや、ここは奮発してカツカレーにして、ついでにサラダもつけてしまおうかな。ああ、なんて贅沢しているのだろう。

ただ、一緒にテーブルを囲んでくれるきみがいないのがさびしい。いや、そうでもないかもしれない。もう、きみとは同じ景色を見ていないから。あんなに仲よかったのに、もう知らない人みたいに感じるようになってきた。たまに会っても、きみがする会社の話はたいしておもしろくないし、きみも私の研究の話には興味がなさそうだ。きみは大学院生は授業を受けてあとは遊んでればいいものだと思ってる。そうじゃないんだけど、ぜんぜんわかってない人に説明するのは大変だからあえてしようとは思わない。人生は夕焼け空に見上げる飛行機雲みたいなものなんだろう。どこかで交わることがあっても、またすぐに離れていってしまう。そして二度目に交わることはない。

一期一会という言葉は、先人の知恵なのかもしれない。サン・テグジュペリが書いたように、距離とか、別離の概念は、交通手段が発達するとともに変容した1。そして通信手段の発達によってもはやその意味をなさなくなったように思っていた。でも、時の流れが人を変えることは普遍的事実だ。離れてしまってもなまじつながってしまっているからこそ、むしろ残酷なほど、その変化を見せつけられることになる。

きみがどこかで元気にやっていてくれることを願う。わたしの大学院生活は、まだまだ長い。


  1. サン・テグジュペリ『人間の土地』