潮時を見極めること、逃げないこと

「潮時」という言葉1が好きだ。それは自然とやってきて、また去っていくもの。

人生において、日々の生活において、潮時を意識しようと心がけています。みんなと一緒にいても、どこかのタイミングでさよならしなくてはいけない。それは何年かを過ごした場所やコミュニティに別れを告げるときもそうだし、飲み会みたいなものに参加したときどのタイミングで抜けるかを考えるときも同じ。ずるずるといつまでもとどまるのはよくないことが多いから、たとえみんなが動かなくても、自分だけ先に去るべきときがある。たぶん、それはけっこう頻繁にある。なぜなら人はそういう決断がなかなかできないからだ。だらだら二次会三次会と参加して、そのまま終電を逃してカラオケで朝まで、みたいのは典型的な無駄な時間の使い方だ。潮時はもっと前にあったはずだ。

答えなくてはいけないのは、「この場にもう一時間、一ヶ月、一年残ることによる効用は、いかほどのものだろうか? それによって自分がどのくらい成長できるだろうか?」という問い。こういうとき、居心地がいいとついつい長居してしまう。ちやほやされる場所、仲間がいる場所。ぬくい場所。そういう場所を、それでもあえて捨てなくてはいけない。未知の荒野に踏み出さなければならない。振り返っている場合ではない。

でも逆に、あまりころころ場所を変えるばかりでもいけない。それは逃げだからだ。これはとある競技をしていて思ったことだ。何かに取り組むとき、特に何らかのスキルを身につけようとしているとき、中途半端にかじって、その先が大切なところなのにフォロースルーをしないで満足してしまう人が多すぎる。他の人がしばしば一年や二年やったら満足することでも、もっと長くやったほうがいいこともある。その先の地平にはじめて見えてくるものがある。たしかに将来そのスキルそのものは使わないかもしれない。でも、真剣に取り組んで何かを身に付ける経験はきっと無駄にならない。

やめてしまうのが早い人を見ると残念な気持ちになる。「そんなにガチ勢じゃないから」とか「ほかにやりたいことがあって、それと両立したい」とか言って、けっきょくフェードアウトしていく。まあ、それはその人の判断なのでとやかく言うことはない。その人の人生なりに優先順位があるのでしょう。実際、別のことに取り組んで結果を残している人は純粋に尊敬する。でも見ていて思うのは、そういう言葉はしばしば逃げだということだ。本気で取り組んだら、自分の限界を見てしまうから。本気で取り組んだら、結果に言い訳できないから。だから本気を出さないことにして自尊心が傷つかないように守っている。そうやって痛みのない世界、ぬるくてやさしい世界に逃げている。それでいいのか?

けっきょく、大切なのは「人脈」とかではない。表面的に仲良いふりをしていても、そんなものはなんの役に立つか? 無駄にいろんなイベント、コミュニティに顔を出して、けっきょく自分の売りにできる強みがなかったら、よくて便利屋さんにしかなれない。若いうちはそれでもちやほやしてもらえるけれど、10年後にはどうなるか?

だから、潮が満ちるのを待たなくてはいけない。本当に満ちるまで、食い下がらなければいけない。プライドを砕かれても、傷だらけになっても。結果を出せず、スポットライトを浴びることができなくても。先輩にはかなわず、同期には差をつけられ、後輩には追いぬかれ、もう居場所がないように感じながら、それでも血まみれになりながら食らいつき続けるしつこさを持たなくてはならない。戦い続けないと、強くなれないのだから。

潮時を見極める目を持ちなさい。いつまでもずるずると快適なところにとどまらない。そしてつらいからといって早く逃げ出さない。居心地のよさに惑わされず、弱さにも負けずに。


  1. 厳密なことをいうと、「潮時」というのはなにかにちょうどいいタイミングのことであって、「そろそろ潮時だね」というフレーズで意味するような「やめどき」の意味では本来はないらしいが、けっきょく「やめるのにちょうどいいタイミング」という意味で使うのであれば両者の意味が重なるところだから問題ないと考える。この文章ではそういう意味で使っている。それに、誤用警察の言うことはそこまで気にするつもりはない。

バカって言うやつがバカ

他人がバカだと思ったら、あなたがバカなのです。他人の置かれた状況、持っている情報、その他もろもろの条件が異なるのに、なぜあなたと同じ思考で同じ結論に至り、同じ行動を取らないことをバカだと思うのか。その想像力の欠如がバカなのです。

他人がつまらないと思ったら、あなたもつまらないのです。その人はつまらないかもしれないけど、あなたもつまらない。相手が自分の食いつける話題を提示してくれないのはわかったけど、あなただって相手が食いつける話題を提示できてない。それって同類じゃないですかね。お似合いですよ。あるいは、相手のほうが本当につまらないかもしれない。でもまた別の人、もっとおもしろい人から見たら、あなたはやっぱりつまらない人に過ぎないのです。話題の引き出しが少ないし、気の利いたことも言えない人。他人をつまらないといって裁いたら、次はあなたが裁かれる番。

他人がめんどくさいと思ったら、あなたも同じくらいめんどくさい。生きていたら、だれしもめんどくさくなるときはあるのだから、受け入れなさい。なんたって死者ですらときどきめんどくさいくらいなのです。それなのにいちいちぶつぶつ文句を言うあなたがめんどくさいことに気づきなさい。文句を言わなくても不機嫌になるなら、それでも十分にめんどくさいことに気づきなさい。

他人が差別的だと思ったら、あなたもきっと同じくらい差別的だということに気づきなさい。いま話題にしている特定の事柄では相手のほうが差別的かもしれないけど、あなたもきっとほかの事柄では差別的なのですよ。自分が安全圏にいると思うのはやめなさい。差別を叩いているつもりで、あなたこそ思いっきり差別してるかもしれないし、そうだとしてもあなたはそれに気づけない。聞く耳を持ちなさい。自分が絶対的正義を持っていると思うのはやめなさい。お互いに、学んでいこうじゃないですか。

他人が過ちを犯していると思ったら、あなたも過ちからは逃れられないことに気づきなさい。しょせん、あなたもわたしも人間なのです。思い上がってはいけません。

他人の行いに問題があると思ったら、それがあなたに何の関係があるかを考えなさい。そのせいであなたがよい人間であれなくなるのですか? そうだとしても、それはあなたの問題ではないのですか? あなたの心持ちが、あなたを害しているだけです。他人があなたを害しているわけではありません。あなたに関係のないことにとらわれて、心を乱して、いったい何がしたいのでしょう。他人のことは放っておきなさい。もしそれでも関わりたいなら、相手をよくするために関わりなさい。腹を立てることは、その役には立ちません。

それでもだれかが自分を害していると思ったら、それに怒って何の役に立つのかを考えなさい。そうすれば問題が解決するのですか? 怨嗟を撒き散らして、関係ない人まで巻き込んで、どうしたいのですか? あなたの感情はあなたの持ち物です。あなたはあなたの感情の持ち物ではありません。淡々と対応しなさい。離れる必要があるなら離れなさい。でも、あなたの大切な感情まで相手に売り渡す必要はないのです。

だれかが自分を益してくれたら、素直によろこびましょう。勘ぐるのは後でいいのです。相手にどんな意図があろうと、あなたが与えられたことに違いはありません。生きていればプラスもマイナスもあるのです。なのになんで、後でマイナスがあるかもしれないからといってプラスの出来事に対してまで心をマイナスにするのでしょう。そうするなら、ちゃんとマイナスの出来事に対しては心をプラスにしてますか? マイナスに振り切れたらあとは上がるしかないから、喜びの極致にありますか? そんなことないですよね? そういうのをダブルスタンダードって言うのですよ。

だれかが自分を助けてくれたら、素直に助けられなさい。与えられることを拒んではいけません。それはあなたが半人前だという意味ではなく、あなたを一人前以上にしてくれるための助けなのです。あなたは感謝して、もっと先に進めばいいのです。

だれかに恩恵を受けたら、そのことで罪悪感を感じる必要はありません。その人に返す必要なんてないからです。また別の人に恩を送っていけばいいのです。そうすればあなたの元に借りは残りません。そうやって世界は回っていくのです。恩という貨幣がたくさん流通するほど、みんな豊かになるのです。経済学の基本でしょう?

だれかががんばっているなと思ったら、あなたも同じくらいがんばっているのです。その人は見えるところでも、見えないところでもがんばっているけど、あなただって同じようにがんばっている。その人をたたえて、自分もたたえなさい。

だれかが尊敬できる人だと思ったら、自分も同じくらい尊敬できる人であると自信を持ちなさい。他人を尊敬できる心は、謙虚に学ぶことができる。他人を尊敬できる心は、ねたまない。他人を尊敬できる心は美しい。そんなあなたは尊敬に値する。

だれかを愛せるなら、あなたは愛されることもできる。信じなさい、あなたは愛される資格がある。だれも、そうじゃないとあなたに告げることはできない。あなたは、愛されない関係に甘んじる必要はない。あなたは、ここにいていい。

大学院生の独り言

学部生だったころ、きみと一緒に学食でカレーを食べた。カレー300円にするか、カツカレー400円にするか、よく迷ったものだ。ついでにサラダをつけるかどうかも、また迷ったものだった。そしてテーブルを囲んで、どうでもいい話をよくしたものだった。ときには将来についても話した。あのころは、いま思い返すと笑ってしまうほど純粋で、世間知らずだった。いや、私は今でも世間知らずなのだろうけど。

あれから何年も過ぎた。私は大学院に進学したけれど、きみは就職した。私はまだ成果を出せずにもがいているけど、きみはもう社会人になって何年か経って、少し大変な仕事を任されたり、転勤したり、後輩を指導していたりするようだね。どんな苦労があるのかは知らない。でもきみがSNSにアップロードする写真は、いつの間にか夜景が見えるレストランでのコース料理になった。誰と行ったのだろう。いや、そんなことはどうでもいい。いくらしたのだろう。そっちのほうが気になる。ぜったいに聞かないけど。聞いたって、どうせ自分に払える金額でないことくらい、わかっているから。

私はまだ同じキャンパスにいて、同じ食堂で、あのころと同じ席に座って、今日も300円のカレーを食べる。いや、ここは奮発してカツカレーにして、ついでにサラダもつけてしまおうかな。ああ、なんて贅沢しているのだろう。

ただ、一緒にテーブルを囲んでくれるきみがいないのがさびしい。いや、そうでもないかもしれない。もう、きみとは同じ景色を見ていないから。あんなに仲よかったのに、もう知らない人みたいに感じるようになってきた。たまに会っても、きみがする会社の話はたいしておもしろくないし、きみも私の研究の話には興味がなさそうだ。きみは大学院生は授業を受けてあとは遊んでればいいものだと思ってる。そうじゃないんだけど、ぜんぜんわかってない人に説明するのは大変だからあえてしようとは思わない。人生は夕焼け空に見上げる飛行機雲みたいなものなんだろう。どこかで交わることがあっても、またすぐに離れていってしまう。そして二度目に交わることはない。

一期一会という言葉は、先人の知恵なのかもしれない。サン・テグジュペリが書いたように、距離とか、別離の概念は、交通手段が発達するとともに変容した1。そして通信手段の発達によってもはやその意味をなさなくなったように思っていた。でも、時の流れが人を変えることは普遍的事実だ。離れてしまってもなまじつながってしまっているからこそ、むしろ残酷なほど、その変化を見せつけられることになる。

きみがどこかで元気にやっていてくれることを願う。わたしの大学院生活は、まだまだ長い。


  1. サン・テグジュペリ『人間の土地』

「日本すごい」は自己成就予言である

スーパーで、150円のスペイン産のニンニクと、300円の国産のニンニクが売っていた。前者は貧相な見た目をしていた。後者は丸々と太っていて、いかにもおいしそうだった。私は自分の貧乏生活を呪いながら、国産ニンニクに恨めしい目を向けつつ、スペインからやって来たニンニクを手に取った。

しかし、なぜこうじゃなきゃいけないのだろう? どうして、スペイン産の高級なニンニクはないのだろう? どうして、国産の廉価なニンニクはないのだろう? これがりんごとかなら日本で品種改良されていたりするしまだわかる。でも、ニンニクなんて日本よりもスペインの方が本場1に近いのではないか? 日本の人件費が高いから国産のはどうしても高価になってしまい、それゆえ高付加価値商品でしか勝負できないのか? しかし、たしかにスペインはEUの中で経済的に成功しているかというと微妙ではあるにせよ、日本だってこんなに長く経済が停滞しているのだし、輸入のコストだってあるわけだし、国産が必然的に高価になる理由は見出せない。そしてこういう構図はいつも同じではないか。食品にせよ、電気製品にせよ、だいたいにおいて「国産は高級」という扱いになっている。例外は西ヨーロッパを中心にしたごく限られたブランドを確立している自動車、時計、鞄くらいではないだろうか。

そして気づいた2。日本国内市場での「国産:高級、輸入品:割安」という構図は、「日本人がまさにそう信じている」というただ一点の理由によって維持されているのだ。つまり、「日本すごい」は自己成就予言であり、「日本人が『日本すごい』と思いこみ続ける限りにおいて日本はすごいし、すごくあり続ける」ということだ。正確にいうと日本人には日本がすごく見える、ということだが。

その理由は、国産であること、単にそれだけの事実によって消費者が高級な商品、付加価値を持つ商品であるとみなすことによって、企業は国産の商品の値段を吊り上げるインセンティブを持つからだ。価格を抑えるとかえってイメージを毀損するし、高くてもどうせ買うなら、そりゃあ値段を高くするだろう。もう少していねいに言うと、輸入品との競争において、低価格帯で勝負すると高級なイメージを活かせない、安さしか求めない消費者が多い価格帯になってしまうから相対的に不利であり、高価格帯で勝負するほうにシフトしていくのだ。他方、輸入品は高付加価値志向の消費者を対象とした価格帯ではたとえ品質がよくてもイメージの時点で不利になってしまうから、イメージがそれほど重要ではない低価格帯で勝負しようとする。

結果として、市場には高級な国産品と廉価な輸入品が出回ることになり、消費者が持っていたイメージはさらに強化される。この繰り返しには終わりがない。「日本すごい」はだれのプロパガンダでもないのだ。そういう広告戦略は企業が純粋に利潤を追求した結果だ。イメージで売る高付加価値商品は国産のものが多くなっていて、そういう商品を売るためには広告を打つから、結果として広告は日本すごい、だからこの商品すごい、というものになる。比較して中国すごいとかベトナムすごいとか言うインセンティブはないに等しい。低価格帯の商品は広告するよりもちょっとでも安いほうが売れるからだ。

だから、すでにちまたにあふれている日本すごい言説はこれからも強化され続けるだろう。でも、日本人がそんな夢想にひたっているあいだにも、他国は着実に技術を伸ばし、経済発展を続ける。いつ、膨らみすぎた日本すごい幻想がはじけるのだろうか。そのときが、日本社会の潮目となるのかもしれない3


  1. ニンニクの本場がどこなのかは知らないけど。

  2. きっとどこかで誰かがすでに同じことを書いていそうな気がするが、そういうものを見たわけじゃなく純粋にひらめいたので調べずに書く。

  3. そのとき、日本人は一気に外に目を向けるのかもしれない。本格的に内資の大企業が見放され、国内の教育の価値が下がり、猫も杓子も英語や中国語に走り、留学しようとする。これはある意味で韓国の現状に似ていたりする。自国の経済の小ささ、脆弱さをわかっているから、あんなにも外に出て行こうとするのだ。だから、20年くらいしたら海外の大学に日本人もたくさんいるようになっているのではないかなと思ったりする。極端に走りすぎることは健全なこととは思わないけど、今の日本人はさすがにのほほんとしすぎだろうと思ったりする。 たとえ若者であっても国が傾くかもしれないとかの危機感は薄くて、優秀な層であっても優秀であるからこそこのまま大企業で勝ち逃げできるだろうと思っているふしがあるように見える。ただ、「日本最低海外最高」出羽守をしたいわけではないことははっきりさせておく。けっきょく、どの国にしたって何があるかわからないのだ。その程度の意味で、世界のどこか違う場所に行っても生き延びられるようにしておくことは大切だと思う。

よき隣人であること:寮生活で学んだこと

大学生時代に寮で暮らしていたことがある。汚い寮だったけど、それも含めて今ではいい思い出だ。

「寮で出会った人がいまでは一番仲のよい友達」みたいな言葉をよく聞く。そう言う当人には本当にそうなのだろう。でも、自分には違った。寮生活というのは根本的に「最高の仲間」的な人間関係を作るものではないと思った。むしろ、寮生活はお互いの汚いところを見ざるを得ない関係。寮を出た後にも続くかどうかは重要ではない。寮に住まなくても、その人とならきっと長続きする関係になっていたかもしれないし。

そうではなくて、「寮を出たらもう二度と会わない」と思う人とも一緒に暮らしていかなければならないことにこそ、寮生活の特別な価値がある。折り合いをつけること、ときに折り合いをつけきれないこと、そのなかでなんとか破綻させずやっていく経験をすること。うまくいくだけの寮生活だったら、別に経験しなくてもよかった。うまくいかないばかりではさすがに辛いけど、ある程度は摩擦があって、自分の生活の仕方が唯一のものではないと認識しないといけない。

共に暮らす理由は、その人たちと暮らすことが楽しいから? いい人たちだから? そうすることが自分の得になるから? だいたいのときはそういう心構えでよい。実際、楽しいから。でも、ときには嫌いになることもあるし、楽しくないときもあるし、時間の無駄だと感じることもある。いい人を愛するのは簡単、人のよい面と付き合うのは簡単。でも、いい人じゃなくても、人の悪い面が出てきてしまっても、それでもどうにかやっていくしかないのが寮生活。共に暮らす理由は、共に暮らしたいからではない。ただ、共に暮らさなければならないから暮らしているだけ。それはお世辞にもキラキラした日々ではない。そういう非現実的な美辞麗句がいかに虚飾にまみれているかを知る日々。生きること、そのむき出しの生臭さにむせる日々。非日常ではなくて、つまらない日常。

生きていればときには騒がしくもするし、散らかすし、迷惑をかける。そういう面に目を向けずに、きれいな面だけを強調することは欺瞞でしかない。家族のもとでもうまくいかないこともあったはずなのに、どうして他人はきれいなものだという望みのない期待をかけ、その期待が外れて勝手にがっかりするのかな。ばかじゃないの。

けっきょく、これは寮だけじゃない。自分の好きなように生きる環境をコントロールしたい人間は、人間として生きるのに向いていない。同棲や結婚したらけんかばかり。友達と仲違いしたらさようなら。SNSに合わない人がいるならブロック。知らない人とは関わらない。自分の生活を独裁したいという欲望にとらわれ、そうする権利があると思い込んでいる。寛容で多様な社会を支持するとか口では言いながら、自分の私的生活では排外主義者。NIMBY。自分と他人の国境線に壁を建設したがっていて、しかもその建設費は社会が払ってくれると信じてやまない。ちがう。ぜんぜんちがう。生きるということは必然的に影響を及ぼし、及ぼされること。相手がときに嫌なやつであり、自分もときに同じくらい嫌なやつであること。それでも一緒に生きること。そこに選択肢はない。自分の家族だって、自分の子どもだって、自分の望むように振舞ってはくれない。いわんや他人をや。ファッション寛容主義なら捨ててしまえ。どうせきみはすぐに排外的になる。

だから若いときに他人と影響を及ぼしあって、どこが限界かがわかって、そのときようやく他者との共存に必要な線が見えてくる。寝起きのけだるさ、疲れて帰ってきた夕方、試験勉強に追われる夜、あるいはゲームに興じる夜。そんな生活の場を共有すること。そこで楽しい時もつらい時も共有すること、そして時には共有できないこと。自分がまだ試験があるのに、もう休みになって浮かれているやつらにいらつくこと。春が芽吹き、夏が訪れ、秋が過ぎ去り、冬に包まれる。流れる月日を共に経験することは、紆余曲折を経ること。うまくいくときと、うまくいかないときを味わうこと。そうやって、人は作られる。

そして学べるでしょう。自分の長所と短所が。自分の生活スタイルが。そして友達になれる人間と、一緒に住める人間はちがうってことが。いい友達になれても、一緒に住むのは無理だったり、こいつとは友達でもなんでもないけど、でも一緒に住む関係にはなれたりする。恋人と結婚相手はちがうというのと一緒かもしれない。結婚したことないからわからないけれど。

共同生活での学びと成長には「いま学んだ!」みたいな瞬間はない。そんなもの、あるいはそんなものは、どこにもないのではないか。あなたがもっとも急速に成長していた子どものころ、そうやって学んでいたわけではないだろうに。そうじゃなくて、地下で木の根が伸びるように、自分の中で「あたりまえ」だと思う範囲がじわじわと拡張されていく。少しずついままでは受け入れられなかったことが受け入れられるようになる。気づかない間に人に影響されていく。そういうのが本当の変容だ。

いっぺん寮生活は経験すべきものだと思う。アパートみたいのじゃなくて、実際に生活を共有する寮生活。べつにそんなにうまくできなくてもいい。「汝の隣人を愛しなさい」とキリストが言ったのは、きっとそれがひどくむずかしくて、みんなできないから。

知っている人を失うこと

しばらく前の話をする。ある日、Facebookに知らない人から友達申請が来ていた。ふつう、こういうのはスパムだ。だけどその人物はずいぶん本物の人間っぽい投稿をしていた。単に写真を投稿するくらいならbotでも簡単だが、コメントで文脈をひろった会話が成立していた。人間関係が見えた。これはbotにしては凝りすぎだろう。ということで意図はわからなかったが承認した。

その翌朝は、よく晴れた明るい朝だった。ケータイを開くとその人からメッセージが届いていた。ジャーナリストを名乗り、なんでも、私が会ったことのある、とある人物について聞きたいという。どういう意味だろう。胸騒ぎを覚えながら、名前が挙げられた人のタイムラインを開いた。たくさんの人がタイムラインに投稿しているようだった。スクロールしていくうち、"rest in peace"という言葉が目に飛び込んで来るまでさして時間はかからなかった。……二秒くらい、頭の中で思考が駆け巡った。そしてわかってしまった。その人は、こないだのテロ事件の犠牲になって、亡くなってしまったのだ。急に周りが暗くなった気がした。地軸が傾いた気がした。

会ったことがあって、一緒のテーブルを囲んだことがあったその人。海の向こうで凶刃に倒れてしまった人。二度と会うことはかなわない人。

現実的には、どちらにせよ二度と会うことはなかっただろう。かつてたまたま一度会っただけだし、ほかに接点はなかった。だからたとえ生きていたとしても……いや、もはやそんなことを考えることすらできなくなってしまった。もう、その人が生きている現実は存在しなくなってしまったのだから。

一回会っただけとはいえ、決して忘れたわけではなかった。ときどき更新されるFacebookで近況を見て尊敬していた。真剣に生きている人だった。行動できる人、熱意と志のある人とはこういう人なのかと思っていた。死者をたたえるためにこんなことを言っているわけではない。ほんとうに、この人は特別だったと思う。でも、もういない。

テロというものがこんなに近くにあるとは思わなかった。たしかに現実に存在していることはわかっていたけれど、でもどこか遠い世界のことだと思っていた。自分の知っている人が犠牲になるとは想像もしていなかった。しかし、もっと近しい人にとってはどれほどの衝撃なのだろうかとも思う。

しばらく立ち直れなかった。何事もなかったかのように振舞いたかったが、何事にも上の空だった。でも人に話すには重たすぎてためらった。言われても反応に困るでしょう。そして人の多い場所が怖くなった。トラックが突っ込んできたらどうしよう、通行人がナイフや銃を取り出したらどっちに逃げよう、そんなことを考えるようになった。ありえないことを言っているわけでもない。各国で起きていること。日本でも起きたこと。

どういう経緯で犯行に至ったのか、詳しくはわからない。テロというものは悪意の結晶なのだろうか。テロリストは悪魔の化身なのだろうか。いや、きっとそういうわけでもない。安易に宗教対立に還元するべきでもない。わたしの知っていたあの人に手をかけた犯人も、また人間だったのだろう。どんな人生を歩んできて、どうしてそこに至ってしまったのだろうか。

あれから少し時間が経った。でも記憶は薄れそうにない。Facebookは相変わらず誕生日をリマインドしてくる。一緒に写っている写真を何年前の今日の写真ですと不意打ちで表示してくる。残酷だ。

生きているって、当たり前のことじゃないのだとはじめて知った。もちろん人が死ぬことは知っていたし、人を看取ったこともあった。けれど死は、老年になって、生をまっとうした先にあるものだと信じていた。あるいはせめて近づいてくる足音が聞こえるものだと思っていた。志半ばにして夭折するなんて、本当に起きることだとは。

わかっている、生きているってことは、死に向かって歩んでいるということなのだと。あなたも、わたしも、みな死すべき存在。でも、それにしたってこれはあんまりじゃないか。

あなたが無駄にした一日は、昨日死んだあの人がどうしても生きたかった一日だ、というフレーズは使い古されすぎかもしれない。でも、改めて問わなくてはならない。わたしの今日は、あの人が天から見ていても恥ずかしくないものだっただろうか。

Thank you for everything and may you rest in peace.

共感を土台にしたコミュニケーションの不毛さ

ああこの人は自分と境遇が似ている。同じようなことを考えている。同じ本を好きでいる……。

そんな「共感」をベースにして、私たちはついつい「自分はこの人と仲がいい、気が合う」と思ってしまいがちじゃないでしょうか。でも、それってあやういと思うのです。だって共感するときって相手を見ていないからです。自分の鏡写しになるべく近い存在を見つけて、鏡の代替物として使っているだけだからです。たしかに心地よいことは間違いありません。なんたって一番慣れ親しんだ人物である自分に似ているわけですから。自分と同じようなことを考えて、それを言ってくれるたびに、自分を肯定してくれているように感じられるからです。

だれか自分以外と接するというのは、差異があることを受け入れることです。自分が好きなものを相手は嫌いだったり、相手の大好物は自分がどうしても苦手なものだったり。たとえ双子だってやっぱりどこかしら違ってくるわけですから、まったく同じような存在は見つかりっこないし、もしいたらそれはそれで怖いことかもしれません。なのに、ついつい差異から逃げて、自分と似た人を求めてしまう。プラトンの『饗宴』で「人は昔々背中が張り合わせられた球体のような形をしていて、前後両方に顔が付いていて、四本足が生えていた。それを神がスパッと切断してしまったから、いまの人々は自分の片割れを捜し求めるのだ。」という話があります。そんな運命の「片割れ」を探すというのは恋愛の文脈においての話ですが、そうじゃなくても私達は似たようなことをしてしまっているんじゃないでしょうか。そしてtwitterのようなSNSが広く使えるようになったいま、けっこう趣味嗜好が会う仲間たちが見つかってしまったりもします。でもそれは、ほんとうは他人に求めるべきものじゃないのです。だって、相手と共感しあっているばかりでは独り言と変わらないからです。コミュニケーションをしているようでいて、実はしていない。自分を投影して、相手の向こうに自分を見ているだけ。そんなに不毛なこともないでしょう。

けっきょく、それは弱さの現われなのです。自分について語りたいけど、でも拒絶されたくないという弱さの。だから自分となるべく近くて、なるべく全部受け入れてくれる相手を探す。そして自分の弱さを肯定したいから、同じ弱さを持っている人を探す。弱くちゃいけないというわけじゃありません。でもせめてこのことには自覚的になるべきでしょう。ひょっとして、他人が自分と違うことへの耐性が下がってないでしょうか。意見が合わないといらっときてないでしょうか。すぐにアンフォローボタンに手が伸びているのではないでしょうか。

程度の差はあれ、人はみな「独裁スイッチ」を持っているのかもしれません。あの人とは音楽の趣味が合わない、あの人とは政治的意見が違う、あの人の服装は趣味じゃない。だからあんまり仲良くない。あるいはポジティブっぽい考え方でも、あの人は自分と同じアイドルが好き、あの人は同じ学校出身、あの人は……。そうやって、相違点や共通点、言い換えれば「共感できる度合い」で人との仲のよさ、かかわりかたを決めているとき、それは独裁スイッチを押しているのとそれほど遠くない行為だとと思います。あるいは身内に特有の言葉でしゃべることも、広い意味では同じようなものです。私がこうやって某アニメに登場するアイテムのたとえを出したとき、間接的に比較的似たバックグラウンドを持つ人を近づけているのです。そういうことを繰り返していくと、じわじわと周りにいる人たちは自分の鏡に近づいていくでしょう。そうやって何気ない日常でスイッチを頻度は高すぎて、いちいち気づくこともないくらいです。でもせめて、「この人は合わないな、好きじゃないな」と思ったとき、それがなぜなのかは考えてみたいなと思います。独裁者は、根っからの勝者から生まれるのではなく、臆病者から生まれるのですから。