大学院生の独り言

学部生だったころ、きみと一緒に学食でカレーを食べた。カレー300円にするか、カツカレー400円にするか、よく迷ったものだ。ついでにサラダをつけるかどうかも、また迷ったものだった。そしてテーブルを囲んで、どうでもいい話をよくしたものだった。ときには将来についても話した。あのころは、いま思い返すと笑ってしまうほど純粋で、世間知らずだった。いや、私は今でも世間知らずなのだろうけど。

あれから何年も過ぎた。私は大学院に進学したけれど、きみは就職した。私はまだ成果を出せずにもがいているけど、きみはもう社会人になって何年か経って、少し大変な仕事を任されたり、転勤したり、後輩を指導していたりするようだね。どんな苦労があるのかは知らない。でもきみがSNSにアップロードする写真は、いつの間にか夜景が見えるレストランでのコース料理になった。誰と行ったのだろう。いや、そんなことはどうでもいい。いくらしたのだろう。そっちのほうが気になる。ぜったいに聞かないけど。聞いたって、どうせ自分に払える金額でないことくらい、わかっているから。

私はまだ同じキャンパスにいて、同じ食堂で、あのころと同じ席に座って、今日も300円のカレーを食べる。いや、ここは奮発してカツカレーにして、ついでにサラダもつけてしまおうかな。ああ、なんて贅沢しているのだろう。

ただ、一緒にテーブルを囲んでくれるきみがいないのがさびしい。いや、そうでもないかもしれない。もう、きみとは同じ景色を見ていないから。あんなに仲よかったのに、もう知らない人みたいに感じるようになってきた。たまに会っても、きみがする会社の話はたいしておもしろくないし、きみも私の研究の話には興味がなさそうだ。きみは大学院生は授業を受けてあとは遊んでればいいものだと思ってる。そうじゃないんだけど、ぜんぜんわかってない人に説明するのは大変だからあえてしようとは思わない。人生は夕焼け空に見上げる飛行機雲みたいなものなんだろう。どこかで交わることがあっても、またすぐに離れていってしまう。そして二度目に交わることはない。

一期一会という言葉は、先人の知恵なのかもしれない。サン・テグジュペリが書いたように、距離とか、別離の概念は、交通手段が発達するとともに変容した1。そして通信手段の発達によってもはやその意味をなさなくなったように思っていた。でも、時の流れが人を変えることは普遍的事実だ。離れてしまってもなまじつながってしまっているからこそ、むしろ残酷なほど、その変化を見せつけられることになる。

きみがどこかで元気にやっていてくれることを願う。わたしの大学院生活は、まだまだ長い。


  1. サン・テグジュペリ『人間の土地』

「日本すごい」は自己成就予言である

スーパーで、150円のスペイン産のニンニクと、300円の国産のニンニクが売っていた。前者は貧相な見た目をしていた。後者は丸々と太っていて、いかにもおいしそうだった。私は自分の貧乏生活を呪いながら、国産ニンニクに恨めしい目を向けつつ、スペインからやって来たニンニクを手に取った。

しかし、なぜこうじゃなきゃいけないのだろう? どうして、スペイン産の高級なニンニクはないのだろう? どうして、国産の廉価なニンニクはないのだろう? これがりんごとかなら日本で品種改良されていたりするしまだわかる。でも、ニンニクなんて日本よりもスペインの方が本場1に近いのではないか? 日本の人件費が高いから国産のはどうしても高価になってしまい、それゆえ高付加価値商品でしか勝負できないのか? しかし、たしかにスペインはEUの中で経済的に成功しているかというと微妙ではあるにせよ、日本だってこんなに長く経済が停滞しているのだし、輸入のコストだってあるわけだし、国産が必然的に高価になる理由は見出せない。そしてこういう構図はいつも同じではないか。食品にせよ、電気製品にせよ、だいたいにおいて「国産は高級」という扱いになっている。例外は西ヨーロッパを中心にしたごく限られたブランドを確立している自動車、時計、鞄くらいではないだろうか。

そして気づいた2。日本国内市場での「国産:高級、輸入品:割安」という構図は、「日本人がまさにそう信じている」というただ一点の理由によって維持されているのだ。つまり、「日本すごい」は自己成就予言であり、「日本人が『日本すごい』と思いこみ続ける限りにおいて日本はすごいし、すごくあり続ける」ということだ。正確にいうと日本人には日本がすごく見える、ということだが。

その理由は、国産であること、単にそれだけの事実によって消費者が高級な商品、付加価値を持つ商品であるとみなすことによって、企業は国産の商品の値段を吊り上げるインセンティブを持つからだ。価格を抑えるとかえってイメージを毀損するし、高くてもどうせ買うなら、そりゃあ値段を高くするだろう。もう少していねいに言うと、輸入品との競争において、低価格帯で勝負すると高級なイメージを活かせない、安さしか求めない消費者が多い価格帯になってしまうから相対的に不利であり、高価格帯で勝負するほうにシフトしていくのだ。他方、輸入品は高付加価値志向の消費者を対象とした価格帯ではたとえ品質がよくてもイメージの時点で不利になってしまうから、イメージがそれほど重要ではない低価格帯で勝負しようとする。

結果として、市場には高級な国産品と廉価な輸入品が出回ることになり、消費者が持っていたイメージはさらに強化される。この繰り返しには終わりがない。「日本すごい」はだれのプロパガンダでもないのだ。そういう広告戦略は企業が純粋に利潤を追求した結果だ。イメージで売る高付加価値商品は国産のものが多くなっていて、そういう商品を売るためには広告を打つから、結果として広告は日本すごい、だからこの商品すごい、というものになる。比較して中国すごいとかベトナムすごいとか言うインセンティブはないに等しい。低価格帯の商品は広告するよりもちょっとでも安いほうが売れるからだ。

だから、すでにちまたにあふれている日本すごい言説はこれからも強化され続けるだろう。でも、日本人がそんな夢想にひたっているあいだにも、他国は着実に技術を伸ばし、経済発展を続ける。いつ、膨らみすぎた日本すごい幻想がはじけるのだろうか。そのときが、日本社会の潮目となるのかもしれない3


  1. ニンニクの本場がどこなのかは知らないけど。

  2. きっとどこかで誰かがすでに同じことを書いていそうな気がするが、そういうものを見たわけじゃなく純粋にひらめいたので調べずに書く。

  3. そのとき、日本人は一気に外に目を向けるのかもしれない。本格的に内資の大企業が見放され、国内の教育の価値が下がり、猫も杓子も英語や中国語に走り、留学しようとする。これはある意味で韓国の現状に似ていたりする。自国の経済の小ささ、脆弱さをわかっているから、あんなにも外に出て行こうとするのだ。だから、20年くらいしたら海外の大学に日本人もたくさんいるようになっているのではないかなと思ったりする。極端に走りすぎることは健全なこととは思わないけど、今の日本人はさすがにのほほんとしすぎだろうと思ったりする。 たとえ若者であっても国が傾くかもしれないとかの危機感は薄くて、優秀な層であっても優秀であるからこそこのまま大企業で勝ち逃げできるだろうと思っているふしがあるように見える。ただ、「日本最低海外最高」出羽守をしたいわけではないことははっきりさせておく。けっきょく、どの国にしたって何があるかわからないのだ。その程度の意味で、世界のどこか違う場所に行っても生き延びられるようにしておくことは大切だと思う。

よき隣人であること:寮生活で学んだこと

大学生時代に寮で暮らしていたことがある。汚い寮だったけど、それも含めて今ではいい思い出だ。

「寮で出会った人がいまでは一番仲のよい友達」みたいな言葉をよく聞く。そう言う当人には本当にそうなのだろう。でも、自分には違った。寮生活というのは根本的に「最高の仲間」的な人間関係を作るものではないと思った。むしろ、寮生活はお互いの汚いところを見ざるを得ない関係。寮を出た後にも続くかどうかは重要ではない。寮に住まなくても、その人とならきっと長続きする関係になっていたかもしれないし。

そうではなくて、「寮を出たらもう二度と会わない」と思う人とも一緒に暮らしていかなければならないことにこそ、寮生活の特別な価値がある。折り合いをつけること、ときに折り合いをつけきれないこと、そのなかでなんとか破綻させずやっていく経験をすること。うまくいくだけの寮生活だったら、別に経験しなくてもよかった。うまくいかないばかりではさすがに辛いけど、ある程度は摩擦があって、自分の生活の仕方が唯一のものではないと認識しないといけない。

共に暮らす理由は、その人たちと暮らすことが楽しいから? いい人たちだから? そうすることが自分の得になるから? だいたいのときはそういう心構えでよい。実際、楽しいから。でも、ときには嫌いになることもあるし、楽しくないときもあるし、時間の無駄だと感じることもある。いい人を愛するのは簡単、人のよい面と付き合うのは簡単。でも、いい人じゃなくても、人の悪い面が出てきてしまっても、それでもどうにかやっていくしかないのが寮生活。共に暮らす理由は、共に暮らしたいからではない。ただ、共に暮らさなければならないから暮らしているだけ。それはお世辞にもキラキラした日々ではない。そういう非現実的な美辞麗句がいかに虚飾にまみれているかを知る日々。生きること、そのむき出しの生臭さにむせる日々。非日常ではなくて、つまらない日常。

生きていればときには騒がしくもするし、散らかすし、迷惑をかける。そういう面に目を向けずに、きれいな面だけを強調することは欺瞞でしかない。家族のもとでもうまくいかないこともあったはずなのに、どうして他人はきれいなものだという望みのない期待をかけ、その期待が外れて勝手にがっかりするのかな。ばかじゃないの。

けっきょく、これは寮だけじゃない。自分の好きなように生きる環境をコントロールしたい人間は、人間として生きるのに向いていない。同棲や結婚したらけんかばかり。友達と仲違いしたらさようなら。SNSに合わない人がいるならブロック。知らない人とは関わらない。自分の生活を独裁したいという欲望にとらわれ、そうする権利があると思い込んでいる。寛容で多様な社会を支持するとか口では言いながら、自分の私的生活では排外主義者。NIMBY。自分と他人の国境線に壁を建設したがっていて、しかもその建設費は社会が払ってくれると信じてやまない。ちがう。ぜんぜんちがう。生きるということは必然的に影響を及ぼし、及ぼされること。相手がときに嫌なやつであり、自分もときに同じくらい嫌なやつであること。それでも一緒に生きること。そこに選択肢はない。自分の家族だって、自分の子どもだって、自分の望むように振舞ってはくれない。いわんや他人をや。ファッション寛容主義なら捨ててしまえ。どうせきみはすぐに排外的になる。

だから若いときに他人と影響を及ぼしあって、どこが限界かがわかって、そのときようやく他者との共存に必要な線が見えてくる。寝起きのけだるさ、疲れて帰ってきた夕方、試験勉強に追われる夜、あるいはゲームに興じる夜。そんな生活の場を共有すること。そこで楽しい時もつらい時も共有すること、そして時には共有できないこと。自分がまだ試験があるのに、もう休みになって浮かれているやつらにいらつくこと。春が芽吹き、夏が訪れ、秋が過ぎ去り、冬に包まれる。流れる月日を共に経験することは、紆余曲折を経ること。うまくいくときと、うまくいかないときを味わうこと。そうやって、人は作られる。

そして学べるでしょう。自分の長所と短所が。自分の生活スタイルが。そして友達になれる人間と、一緒に住める人間はちがうってことが。いい友達になれても、一緒に住むのは無理だったり、こいつとは友達でもなんでもないけど、でも一緒に住む関係にはなれたりする。恋人と結婚相手はちがうというのと一緒かもしれない。結婚したことないからわからないけれど。

共同生活での学びと成長には「いま学んだ!」みたいな瞬間はない。そんなもの、あるいはそんなものは、どこにもないのではないか。あなたがもっとも急速に成長していた子どものころ、そうやって学んでいたわけではないだろうに。そうじゃなくて、地下で木の根が伸びるように、自分の中で「あたりまえ」だと思う範囲がじわじわと拡張されていく。少しずついままでは受け入れられなかったことが受け入れられるようになる。気づかない間に人に影響されていく。そういうのが本当の変容だ。

いっぺん寮生活は経験すべきものだと思う。アパートみたいのじゃなくて、実際に生活を共有する寮生活。べつにそんなにうまくできなくてもいい。「汝の隣人を愛しなさい」とキリストが言ったのは、きっとそれがひどくむずかしくて、みんなできないから。

知っている人を失うこと

しばらく前の話をする。ある日、Facebookに知らない人から友達申請が来ていた。ふつう、こういうのはスパムだ。だけどその人物はずいぶん本物の人間っぽい投稿をしていた。単に写真を投稿するくらいならbotでも簡単だが、コメントで文脈をひろった会話が成立していた。人間関係が見えた。これはbotにしては凝りすぎだろう。ということで意図はわからなかったが承認した。

その翌朝は、よく晴れた明るい朝だった。ケータイを開くとその人からメッセージが届いていた。ジャーナリストを名乗り、なんでも、私が会ったことのある、とある人物について聞きたいという。どういう意味だろう。胸騒ぎを覚えながら、名前が挙げられた人のタイムラインを開いた。たくさんの人がタイムラインに投稿しているようだった。スクロールしていくうち、"rest in peace"という言葉が目に飛び込んで来るまでさして時間はかからなかった。……二秒くらい、頭の中で思考が駆け巡った。そしてわかってしまった。その人は、こないだのテロ事件の犠牲になって、亡くなってしまったのだ。急に周りが暗くなった気がした。地軸が傾いた気がした。

会ったことがあって、一緒のテーブルを囲んだことがあったその人。海の向こうで凶刃に倒れてしまった人。二度と会うことはかなわない人。

現実的には、どちらにせよ二度と会うことはなかっただろう。かつてたまたま一度会っただけだし、ほかに接点はなかった。だからたとえ生きていたとしても……いや、もはやそんなことを考えることすらできなくなってしまった。もう、その人が生きている現実は存在しなくなってしまったのだから。

一回会っただけとはいえ、決して忘れたわけではなかった。ときどき更新されるFacebookで近況を見て尊敬していた。真剣に生きている人だった。行動できる人、熱意と志のある人とはこういう人なのかと思っていた。死者をたたえるためにこんなことを言っているわけではない。ほんとうに、この人は特別だったと思う。でも、もういない。

テロというものがこんなに近くにあるとは思わなかった。たしかに現実に存在していることはわかっていたけれど、でもどこか遠い世界のことだと思っていた。自分の知っている人が犠牲になるとは想像もしていなかった。しかし、もっと近しい人にとってはどれほどの衝撃なのだろうかとも思う。

しばらく立ち直れなかった。何事もなかったかのように振舞いたかったが、何事にも上の空だった。でも人に話すには重たすぎてためらった。言われても反応に困るでしょう。そして人の多い場所が怖くなった。トラックが突っ込んできたらどうしよう、通行人がナイフや銃を取り出したらどっちに逃げよう、そんなことを考えるようになった。ありえないことを言っているわけでもない。各国で起きていること。日本でも起きたこと。

どういう経緯で犯行に至ったのか、詳しくはわからない。テロというものは悪意の結晶なのだろうか。テロリストは悪魔の化身なのだろうか。いや、きっとそういうわけでもない。安易に宗教対立に還元するべきでもない。わたしの知っていたあの人に手をかけた犯人も、また人間だったのだろう。どんな人生を歩んできて、どうしてそこに至ってしまったのだろうか。

あれから少し時間が経った。でも記憶は薄れそうにない。Facebookは相変わらず誕生日をリマインドしてくる。一緒に写っている写真を何年前の今日の写真ですと不意打ちで表示してくる。残酷だ。

生きているって、当たり前のことじゃないのだとはじめて知った。もちろん人が死ぬことは知っていたし、人を看取ったこともあった。けれど死は、老年になって、生をまっとうした先にあるものだと信じていた。あるいはせめて近づいてくる足音が聞こえるものだと思っていた。志半ばにして夭折するなんて、本当に起きることだとは。

わかっている、生きているってことは、死に向かって歩んでいるということなのだと。あなたも、わたしも、みな死すべき存在。でも、それにしたってこれはあんまりじゃないか。

あなたが無駄にした一日は、昨日死んだあの人がどうしても生きたかった一日だ、というフレーズは使い古されすぎかもしれない。でも、改めて問わなくてはならない。わたしの今日は、あの人が天から見ていても恥ずかしくないものだっただろうか。

Thank you for everything and may you rest in peace.

共感を土台にしたコミュニケーションの不毛さ

ああこの人は自分と境遇が似ている。同じようなことを考えている。同じ本を好きでいる……。

そんな「共感」をベースにして、私たちはついつい「自分はこの人と仲がいい、気が合う」と思ってしまいがちじゃないでしょうか。でも、それってあやういと思うのです。だって共感するときって相手を見ていないからです。自分の鏡写しになるべく近い存在を見つけて、鏡の代替物として使っているだけだからです。たしかに心地よいことは間違いありません。なんたって一番慣れ親しんだ人物である自分に似ているわけですから。自分と同じようなことを考えて、それを言ってくれるたびに、自分を肯定してくれているように感じられるからです。

だれか自分以外と接するというのは、差異があることを受け入れることです。自分が好きなものを相手は嫌いだったり、相手の大好物は自分がどうしても苦手なものだったり。たとえ双子だってやっぱりどこかしら違ってくるわけですから、まったく同じような存在は見つかりっこないし、もしいたらそれはそれで怖いことかもしれません。なのに、ついつい差異から逃げて、自分と似た人を求めてしまう。プラトンの『饗宴』で「人は昔々背中が張り合わせられた球体のような形をしていて、前後両方に顔が付いていて、四本足が生えていた。それを神がスパッと切断してしまったから、いまの人々は自分の片割れを捜し求めるのだ。」という話があります。そんな運命の「片割れ」を探すというのは恋愛の文脈においての話ですが、そうじゃなくても私達は似たようなことをしてしまっているんじゃないでしょうか。そしてtwitterのようなSNSが広く使えるようになったいま、けっこう趣味嗜好が会う仲間たちが見つかってしまったりもします。でもそれは、ほんとうは他人に求めるべきものじゃないのです。だって、相手と共感しあっているばかりでは独り言と変わらないからです。コミュニケーションをしているようでいて、実はしていない。自分を投影して、相手の向こうに自分を見ているだけ。そんなに不毛なこともないでしょう。

けっきょく、それは弱さの現われなのです。自分について語りたいけど、でも拒絶されたくないという弱さの。だから自分となるべく近くて、なるべく全部受け入れてくれる相手を探す。そして自分の弱さを肯定したいから、同じ弱さを持っている人を探す。弱くちゃいけないというわけじゃありません。でもせめてこのことには自覚的になるべきでしょう。ひょっとして、他人が自分と違うことへの耐性が下がってないでしょうか。意見が合わないといらっときてないでしょうか。すぐにアンフォローボタンに手が伸びているのではないでしょうか。

程度の差はあれ、人はみな「独裁スイッチ」を持っているのかもしれません。あの人とは音楽の趣味が合わない、あの人とは政治的意見が違う、あの人の服装は趣味じゃない。だからあんまり仲良くない。あるいはポジティブっぽい考え方でも、あの人は自分と同じアイドルが好き、あの人は同じ学校出身、あの人は……。そうやって、相違点や共通点、言い換えれば「共感できる度合い」で人との仲のよさ、かかわりかたを決めているとき、それは独裁スイッチを押しているのとそれほど遠くない行為だとと思います。あるいは身内に特有の言葉でしゃべることも、広い意味では同じようなものです。私がこうやって某アニメに登場するアイテムのたとえを出したとき、間接的に比較的似たバックグラウンドを持つ人を近づけているのです。そういうことを繰り返していくと、じわじわと周りにいる人たちは自分の鏡に近づいていくでしょう。そうやって何気ない日常でスイッチを頻度は高すぎて、いちいち気づくこともないくらいです。でもせめて、「この人は合わないな、好きじゃないな」と思ったとき、それがなぜなのかは考えてみたいなと思います。独裁者は、根っからの勝者から生まれるのではなく、臆病者から生まれるのですから。

言論識失調

大空を飛ぶパイロットは、感覚ではなく計器を信じるよう訓練されるという。「機体が逆さまだ!」偽りの感覚に誘われて、計器が故障したと信じ、そして二度と戻らなかったパイロットの末路からの教訓。 それは平衡感覚が失われる 「空間識失調」に陥るから——何も見えない雲のなかを飛ぶとき、上下両方を雲霞に挟まれたとき、あるいは一見平穏な大空で海と空を見間違えたことに対する、重たい代償。計器もときに壊れるけれど、その確率は人間が間違う確率よりずっと低い。

言論も似てるかもしれない。理屈では正しいとわかっているのに、感覚が納得できない考え方がある。そんなとき、理性を拒絶し直感に従う魅力は抗いがたいほど強い。どんなに先入観に反しても理性のみに従うには鋼の意思が必要。それはとてもむずかしい。でも、抗わなければ深く暗い認知バイアス とignoranceの海に呑まれてしまう。これを「言論識失調」と呼ぶことにしよう。

ここでやっかいなのは、違和感を覚える理由が言語化できていないだけで、実は背後にまっとうな理由なことがしばしばあること。でも、言語化できてない議論には危険がひそむ。細部を点検できないし、反論されるチャンスもない。だったら納得はいかなくても正しい理屈に従った方が、落とし穴にはまる確率は小さい。ここに思考を正確かつ具体的に言語化し、検証可能にすることの重要性がある。そうすることでより合理的、より低リスクな行動を取れるようになる。

でも、最後には"gut feeling"が、確率は低くとももっとも深刻な結末から人間性を守る砦になることもあるかもしれない。高度に武装され、偽装され、世間を席巻する「正論」や「合理性」と対峙したときには特に。そこに理由は持ち出せない。信念に理由をつけるというのは、その信念の絶対性を放棄し、条件つきにするということだから。提示した理由が崩れてしまったとき、信念を放棄して丸め込まれざるを得なくなる呪いだ。

後世の人々は安全圏から是非を論じられるのだろう。しかし現在を当事者として生きるには、どのみち過ちを犯す覚悟がいる。覚悟を持つことは罪を軽くするわけではないけれど、少なくとも自分が他者を裁ける立場にないことは学ばせてくれる。 ということで、パイロットにならって言論で示される合理性という「計器」に絶対的に従うべきなのか、あるいはときに直感による拒否権という例外を認めるべきなのか。けっきょくまだわからない。

環境を変えるべき時、環境を変えざるべき時

“Get out of your comfort zone"みたいなフレーズをよく聞きます。"You’re the average of five people around you"とかも有名です。環境を変えなさい、そうすれば自分が変われる。もっと輝く自分になれる。そんな希望を与え、現状にひたったまま腐っていくことを戒め、行動することをうながす言葉です。

こういうのはいわゆる「意識高い」人がよく使う言葉である、あるいはそう考えられているものだと思います。たとえば起業とかするような人たち、あるいは学生でさまざまな活動に手を出し、世界中に留学とかインターンとかに行くような人たちです。(個人的にはこういう人たちのことを揶揄する皮肉っぽい人たちには変なルサンチマンを感じるので距離をおきたいのですが)こういった「環境を変える」とか「新しい何かを始める」ことで「新しい私・成長した私になれる」という考え方はしばしば行き過ぎていると思います。

むしろ「人生には環境を変えて世界を広げるべき時と、逆に腰を据えてじっくり自分に向き合うべき時がある」のではないでしょうか。ときに変化を求めることを否定するつもりではないですが、自分の課題を分析もせずに変化ばかり追いかけているのはまずいということです。

なぜかというと、変化の快感を安易に摂取しすぎになるからです。そしてそうすることで簡単にキラキラできすぎるからです。ここで大事なのは、環境を変えるにせよ、新しいことをはじめるにせよ、その変化は外部的なもので、自分そのものは本質的に変わっていないことです。そうやって変化を外部に求めていると、往々にして自分の弱さから目を背けたままで済ませることができてしまいます。それはとてもきもちがいいことです。自分の醜いところはぜんぶ忘れてしまえます。環境の変化がもたらす非日常の感覚は快感にあふれ、いろいろな新しい経験を次々にするとエキサイティングな毎日が送れます。ついでにそれっぽい写真や文章をFacebookに投稿したら山ほどlikeがもらえるでしょう。

でもそうしているうちに、代わり映えのしない日常がだんだん色あせて感じられるようになり、やがて非日常の中毒になってしまいます。等身大の自分はたいして成長も変化もしてないから、非日常ドーピングをやめたとたんに弱くてかっこわるい自分を発見することになります。それがいやで、こわくて、生身の自分から逃げ出して、また変化や非日常の摂取に走って、輝かしい日々を見るのです。ただの悪循環。見ているものは蜃気楼でしかないのです。

ほんとうは、もっと見苦しくもがかないといけないのです。自分なんて何者でもなくて、ださくて、取替えてしまえる存在であることを認めないといけないのです。きらきらした毎日なんて幻想だということを認めないといけないのです。そして一歩一歩進んでいくしかないのです。そのためには、環境が変化しない、凪いだ湖面のような生活をして、見たくないところも含めて自分の姿を直視する必要があるのです。急に成長なんてできるわけないから、じっくり向き合わないといけません。

ひと夏で人は変わりません。何かのきっかけにはなるかもしれないけれど。ほんとうに充実した人生は何気ない日常、つまらない日々を一所懸命に生きることによってはじめて達成されるのです。たとえば大学生だったら、ふだん勉強することも考えることも放棄して、休みの海外旅行とか学生イベントで一回り大きな自分になった、とか言うのはいけません。非日常に依存してはいけません。一年には365日が与えられているのだから、そのすべてを活かすべきです。よく学び、よく遊び、よく休むのです。

そして、もしかっこよくてキラキラしたことと、そうじゃないことの二つがあるなら、キラキラしてないほうを選んだほうがいいのです。留学先にだれもが知っている有名大学と、日本じゃだれも知らない無名大学があって、でもあなたは実はどちらも同じくらいすばらしくて魅力的なところだと知っていたとします。そうしたら後者を選ぶべきです。そうすれば、輝くためには本当にがんばって自分が成長して何か成果を出さないといけません。でも、前者に行ったらそれだけでもう満足できてしまいます。

考えてください。あなたがしているその活動は10年後のあなたの肉となり骨となるものですか? それともいまキラキラごっこをするためのものですか? その仲間たちと10年後にも会ってますか? 留学して、それでレジュメに一行足せる以外に本当に価値のあるものを得ていますか? それとも、ただ逃げているだけではないですか?

もしそれで自信を持って価値のあることだと言えるなら、ぜひしてください。けっきょく、それはとても大事なことなのです。あるいは新しい環境に適応したり、新しいことをはじめるのが苦手なら、ぜひ挑戦してください。むしろ挑戦しないのは逃げです。それに、ときには環境を変えたほうが自分自身の新たな面がわかるというのもまた事実です。でも、もうそういうのは何回もしているし得意なのに、何かにとりつかれたように変化を摂取し続けて、非日常に頼った生活をしているなら、いっぺん人生を考え直したらどうでしょうか。